1909 in London

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 やがて彼は唸るように問うた。戸惑いを苛立ちで誤魔化しているかのような声色だった。 「なぜ、僕の手紙にYesと返してくれなかった?」 「……君と会うのが怖かったからだ。会って……こうして、ふたりきりになるのが」  止まらぬ本音がボロボロと零れ出す。まるで流れぬ涙の代わりだ。雨のせいでしかない顔の冷たさと、彼の頬に刻まれた一筋の跡が、感傷的な錯覚を募らせた。むろん彼も泣いてなどおらず、徐に上下させた睫毛から雨の雫が滑り落ちただけなのだが。  人前で取り乱すなんて紳士らしくない振る舞いは、この国では認められていない。恐怖も悲哀も、逆に歓喜も、感情表現は最小限に留めておかなければならない。 「今も怖いのか?」 「……怖い」 「僕は適当なホテルに泊まって、明朝ブライトンに帰るべきだと思うか」 「ああ、そうすべきだ」  断固として主張し続けながらも、私の視線と腕は虚空を彷徨っていた。 「君は、本当にそれを望むのか?」 「当然──」  指先が、酷く冷たいものに触れる。剥き出しになったハーバートの手だ。その瞬間、彼が怯えるように身を固くしたことにも気付いてしまい、私は矛盾した行動に走らざるを得なくなった。つまり──衝動的に彼の手を取ったのだ。  起こりうる未来の可能性を恐れているのは私だけではない。  なればこそ、ふたつの想いを殺し、ひとりで在り続けることを、正解と称していいのだろうか。 『君、グレイ・バーソロミュー・サヴィル? 突然で悪いが、哀れな男を匿うことに興味はないかな』 『……いつも悪さを働いては寮監に追い回されてる問題児っていうのは君か、ハーバート』 『噂してもらうほど大した人間じゃないさ。パーマー教授への腹いせも、インク壺に機械油を混ぜるくらいしか思いつかなかった』 『どうせならマーマイトのほうがよかったかもしれないな。教授はあれが大の苦手なんだ』 『おや、覚えておこう。次は靴墨と入れ替えてやる』  出逢った日からそうだったのか、今となっては覚えていない。とにかく彼が傍にいると、私の心は不安定になり、頭が回らないというのに口数が増え、しばしば表情を作り忘れた。  健康的な美しさに魅せられたのかもしれない。知性の光に惹かれたのかもしれない。あるいは、私を見つめる眼差しのあたたかさに──そう、最初はただ夢見て、いつしかはっきりと理解していた。 『サヴィル、卒業したらブライトンに来ないか。少しばかりうるさいが、ロンドンよりも色彩豊かな街だ』 『それは……』  何かをするわけにはいかないだけで、私たちが愛し合っているということを。  ──学生時代の私が安全な道を選んだことに、彼は少なからず失望しただろう。けれど今、もう一度。けもの道を前にして、私は彼の手を握っている。  見据えた方向からは血のにおいがしていた。「大罪」の看板を掲げられた、日の当たらない場所。しかしこれは誰かを傷つける罪ではない。自分を騙したまま太陽の下を歩いていけば、傷つくことになるのは我々なのだ。 「──なあ。もういいだろう、グレイ」  旧き国に背いて私の名を呼ぶ声は、迷子の少年のように震えていた。
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