1909 in London

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 ◆ ◆ ◆  明かりを点けるのも、湿気で重くなったジャケットを脱ぐのも煩わしかった。  幸い不都合はなかった。玄関扉を閉めると同時に、私は彼というぬくもりに縋りついていた。薄い背中に両腕を回し、白い首筋に鼻先を埋め、立ち尽くしたまま全身で彼の存在を感じていた。彼も無言で私の体温を受け止め、血潮をどくどくと響かせていた。  上品なコロンは落ちきり、ふたりとも同じ雨のにおいがする。髪も服もぐしゃぐしゃで、喋りさえしなければ英国紳士の様式は一欠片もない。固く閉ざされ、静まり返った空間に、私たちを邪魔するものは何もなかった。  彼の唇は肌よりもやわらかな弾力があり、それを自分の唇で確かめるのが不思議な感覚だった。叡智を語るためにあるそれが呼吸のたびに私を呼び、無粋なサヴィルの家に私と彼だけの空間を構築していった。  交わる舌は蕩けるほど熱く、零れる吐息は蜜のように甘い。私を映す円い海はこれまでに見たどんな光景よりも鮮麗で、胸に迫ると同時に罪悪感を募らせた。 「……すまない。もっと早くにこうしておくべきだった」 「謝罪が聞きたいわけじゃない」  半ば無意識に呻いた私に、彼が耳元で囁く。ここに至って何を求められているかがわからないほど私も愚鈍ではない。  雨と汗に濡れた額を重ね、宝箱から大切なものを取り出すように、禁じていた想いを解き放つ。 「エリオット。君を、愛している」  腕に一層の力を込め、頬を寄せる──それだけだった。全身余すところなく口づけ、できる限りの愛撫を施し、精が尽きるまでまぐわうことを願ってきたにもかかわらず、私はそれ以上動けなかった。浅いキスが、繰り返される名前が、指先を充足感で痺れさせた。何もできないことの心地よさは、微睡みの間際によく似ていた。  あるいは、過去に見てきた狂おしい夢が、すべて虚しさに紐付いていたことも理由に挙げられるのかもしれない。いずれにせよ私は満ち足りていて、この幸福を否定する我が国を恨めしく感じることすらできなかった。  訥々とした告白に目で頷きながら、彼はほとんど声にならない声で私を抱き締めた。 「僕も……君のためなら何をしてもいいと思っていた。戦うことも逃げることも、どんな困難も厭わないと」  言葉に秘めたる不穏な影と裏腹に、広がっていくのは凪いだ笑みである。このロンドンにはもったいない、春のように晴れやかで、澄みきった笑顔。 「今はただ、この瞬間が永遠となることを祈るばかりだ」  その目映さに瞬きを忘れる。この腕に抱いた男が自分の愛する人であることが、何よりも誇らしかった。揺らめく海の色は、降り注ぐ日光を照り返したもの。彼さえいてくれれば、いかなる荒屋もきっと、愛を育む揺り籠となるのだろう。 「──しかし、我ながら陳腐な感傷ではあるな」  小さな溜息とともに彼は私の衣服の乱れを直し、ポケットの上から懐中時計に触れた。 「じきに僕は君のいないブライトンに帰り、君は僕のいないロンドンで日々を過ごす。もしかすると今日の出来事は、霧が見せた一夜の幻だったのではないかと疑心暗鬼に陥りながらね」 「なら、今度は私がブライトンに行こう。君と寄り添える場所があるといいんだが」  眩しげに顔を上げた彼の頬を掌で包む。  彼はずっと待ってくれていた。愛おしい手を引いて一歩を踏み出したのは私だ。果敢に進み続けるか、その場に留まるか。今その決断は下せなくとも、手を離すことだけはしたくなかった。 「だから……夜が明けても、私と恋をしてくれるか」  絡まり合う指。答えは唇のぬくもりで充分だ。彼と出逢ってから最も長い沈黙が、激しくなる風雨を覆い隠した。  寝室に朝の光が射し込むまで、私たちは嵐がロンドンを通り過ぎたことにも気がつかなかった。
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