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夕凪が私の座敷に飯を持ってきたのは、御天道様に鼠色の雲がかかった頃だった。味噌汁に漬物、豆腐に菜葉。ほとんど一汁一菜の飯は、私の心の臓を確かに抉ってくる。父上に売られなけりゃ、今頃もっと……。臭いものに蓋をして、目を背けていたのに、父が登楼するとこれだ。
「……具合でもわるぅありんすか」
「あ?」
ぽつり、雨の音が吉原を包み始めた頃、夕凪はそう言葉を落とした。思わず御膳から顔を上げ、夕凪を見つめる。困惑している顔付きの夕凪は、私が全く手をつけていない朝餉を一目見る。
廓の女だ。華やいだ表情を浮かべている女郎がいりゃあ、情夫ができたと思う。同じように、浮かない顔つきをしてる女郎を見たらまずはじめに思い付くのは、梅毒などの性病だ。
身体の心配をするのはなにも間違ったことじゃない。
「雨のせいにありんしょう。少々体が重いだけさ」
「少しでも食べておくんなんし。精をつけねば……」
「おまえさんより廓に長くおざんりんす。その様なことを言われんでも分かっておるさ。……そんなことより、おまえさん、まだ張見世をしておるのか」
廓に潜り、箸より重いものは持たなくなった。当たり前だ。身の回りのことは全て誰かがやるのだから。
追求を免れるため、私は夕凪の心配を反発するように遮る。言い過ぎたかもしれないが、もう昨夜のことは忘れたい。
「おまえさん、部屋持ち(※1)だろ?」
「さいざんす。けんど、御内儀さんに言われんした。商売上がったりだ、とかなんとか。呼び出し昼三(※2)ほどにならなけりゃ、御内儀さんに楯突くなんてことできんせんよ」
旦那とまぐわう為に用意されただけの布団。それはもう男衆が座敷から出し、今宵のために掃除を行っているだろう。たしかに、夕凪の言うように、飯も床布団も呼び出しになってからそれなりのものになっていった。私の姐女郎が身請けされ、私が呼び出しに昇進し、姐さんの客が降りてきてから。
私は白い飯に箸を突き刺し、もぎ取るように、米粒を掬う。乱暴に口に入れた。
「あとで御内儀さんに話しとくよ」
「やめてくだせえ……。姐さんの後輩女郎だからとやっかみを言われるのはもう懲り懲りだ」
苦虫を噛み潰したような顔を見せた夕凪は、軽く頭を下げ私の座敷から出て行く。
水分のあまりない、硬いまんまを上手く飲み込むことが出来ない気がした。
「……やってられねぇよ」
廓はいつだって残酷だ。これ以上、私たちを虐めてなにがしてってんだい。
※1 花魁の位の中で最上位。ときに御内儀より決定権を持つ見世の顔
※2 花魁の位の中で最下位級。一部屋自分の部屋を与えられており、仕事と自室をその一部屋でやりくりする。その上の位が座敷持ちで、自室と仕事部屋、別々のふた部屋与えられる
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