奇譚遊戯

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「おや。夕霧じゃねぇのかい」 羅生門河岸(らしょうもんがし)側に祀られている、九郎助稲荷(くろすけいなり)に頭でも下げようかと京町二丁目を入った時だった。京町一丁目に住む、松屋の花扇の声が聞こえてくる。 私の隣には、傘を持ち私が濡れないように雨を遮ってくれる男衆がひとり。男は花扇の姿を見ると、軽く頭を下げた。 「なんだい。おまえさんもなにか悩み事かい?」 「……花扇、おまえさんと同じにしないでおくれ。ここにはただ……日々の礼をな」 「浄念河岸(じょうねんがし)の女郎が羅生門に来てまで、礼を言いたいなにかがあんのかねぇ(※1)」 図星を突かれ、花扇を睨み付ける。 この女の言っていることは全て当たっていた。こんな雨の日に切見世(きりみせ)(※2)が並ぶ羅生門に足を進めているなんて、とんだ莫迦だろう。この隣にいる男衆にも、飯を食った後一人で見世を出た既の所で見つかり御叱りを受けた。 ──花魁に羅生門でなにかあっちゃぁ、俺たち生きていけんのですわ。そう必死に懇願され、泣く泣く一人遣いをつけた。 「……弥吉、すまんがひとりにしておくれ」 「ですが花魁……」 「すまんのぉ。弥吉とやら、花魁同士話したいことがあるんじゃ」 私の隣にいる傘を持った男衆、弥吉にそう伝えれば、花扇は加勢するように言葉を重ねる。高圧的なその姿は花魁という地位に相応しいが、どちらかと言えば冷たいものだった。昨日(さくじつ)見た後輩女郎も私と同じような傘持ちの男衆も連れていないところを見ると、こやつが見世の者に好かれていないということは、まことなのだと知る。 一人でに傘をさした花扇花魁は寂しい奴だと思いながらも、浮き雲のような自由さを兼ね備えているようで憧れる気持ちもあった。 弥吉はいまだ納得できないようで渋い顔をしているが、仕方ないと思ったのか頭を下げる。足早に私から離れ、来た道を戻って行った。 「……それで? 子を孕んだか? それとも、鳥屋(とや)(※2)につくか?」 「おまえさん、そういうとこが慕われない要因じゃ」 京町二丁目を歩きながら、花扇はそんな無粋なことを喋り始めた。私の隣を歩く花扇からは香木の馨しい香りが漂い、女の色香を存分に感じる。 廓の女の最大の悩みはそのふたつ。……ん? 「なぜ、情夫が入っていない? 失礼じゃないのかい? わっちの悩みから色恋を抜くとは」 廓の女の最大の悩みは花扇が言ったそのふたつではない。もうひとつある。男だ、それも愛しの男。この苦界から這い出てやろうと決心してしまう、心から愛した男。 私を見てそのふたつしか出てこないのだとしたら、なんと腹立たしい。惚れた腫れたの世界でその色香も出せておらんということなのか? 「御稲荷さんの前で、情夫について願う者はおまえさんみたいに暗い顔はしてねぇのさ」 「……そういうことかい」 「かく言うわっちも色恋はとんとねぇから安心しな」 ※1 大門から見て西にある浄念河岸(じょうねんがし)側の見世のほうが東にある羅生門河岸(らしょうもんがし)側より位が上。高級な見世は浄念河岸側にあり、最下級は羅生門河岸側に構える ※2 大見世・中見世・小見世の小見世よりも最下級の見世。大見世などは二階建てだが、切見世は長屋で、遊女の品も良くなく、客を引き摺り込んでいた ※3 梅毒などの病を患った女郎が押し込められる部屋。苦しんでいる姿が卵を産む鳥のようだと喩えられた
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