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目が離せない。曇り空、また雨をも味方につけ、こやつは憂いておる。それが手練手管でもなんでもない、というのは同じ境遇にいるからこそ分かっちまうのかもしれない。同じ花魁だからこそ、ここに計算というものが一切ないのだと分かる。
「……昔なぁ、おまえさんの八朔を見たんじゃ。白無垢姿のおまえさんを見て、あぁ、似ておる、似ておるが、わっちより数多ある苦界を歩んできたのであろうと分かっちまってなぁ」
「惚れたか?」
なんと声を掛けてよいのか分からず、私はあの悍ましい花魁道中を会話に出してしまった。花扇は今まで張っていた肩の荷を下ろし、それこそ手管のような言葉を私に向ける。
たったその一言だった。たったその一言で、私という者がそっくりそのまま変わってしまう。
落ちる雨粒が止まった気がした。
あぁ……私のこの想いはその一言で収まるのか、なんと、しけってなぁ。
「莫迦なことを言うな」
「……おまえさんの話もしておくれ。御狐様が喋ったことは今まで一度だってねぇんだ」
この廓でまことの想いを口にする恐ろしさ、そして伝わらなさは心得ていた。駆け引きと戯言の場所だ。伝わらねぇと嘆く女はまことの心を込め指を切り、情夫に捧げたりとしたもんだ。
花扇に手管で言われたその一言は、私の心の臓に深い傷を負わせる。気付かなかったその想いがあぶくとなって消えていく。
「尻を叩く旦那がおりんしてなぁ」
「おや、無粋だねぇ。袖にしちまゃぁいい」
まことの心を隠すことにこの言葉遣いは長けている気がした。あの夜、八朔の夜はこれからも私の心に住み続け、そしてみなが語り継ぐ。それでいい。
「それがそうもできぬのじゃ」
「……どこぞの大店か知らぬが、おまえさんは花魁。最上位の呼び出し昼三、できぬことなどなかろう」
「わっちを女衒に売り飛ばした親父様なのさ」
花扇のまるく大きな瞳がより開かれる。
「なんとまぁ。玄人なお方で……」
驚いた花扇の口から漸く出てきた言葉はその一言だけだった。私は素直なその言葉に思わず口を開けて笑ってしまう。ぱちんぱちん、傘を爆ぜる雨音が私の豪快な笑い声を飲み込んでいく。
あっははは、と止まることを知らない私の感情を冷めた目で見る花扇。
「どういうわけだか知らぬが、あやつは見世に義理立てしてまで、わっちをあの鈴屋に住まわせておる。御内儀は商売がどうのと言い女郎を虐めておるが、わっちの親父様から多大な金を貰っておる。どの口が言ってんだか、腹の虫が収まらねぇよ」
「その尻を叩く旦那に腹を立てておるのか? それとも意地の悪い女将かい?」
「どちらもだな」
雨のおかげか身体が冷えていく気がする。雨足が強くなってきた。不意に見上げた空は溝鼠でも引っ掛けてきたのかとでも思うほどに、曇天だ。赤い傘の先端から涙の如く、雨粒が落ちる。
「そうかい。……そりゃぁ、難儀だな」
ぽつり、花扇の言葉が転がった。
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