二匹の兎

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夕凪の座敷に出向くがそこには旦那がひとり、ぽつりと座っているだけだった。障子の隙間から覗き、盗み見れる旦那は気の弱そうなお人柄をしている。 ……夕凪は、御手水(※1)にでも行くとかなんとか言って、そのまま帰らぬ気なのかもしれない。それを怒らなそうなお方だ。ふぅぅ、と深く呼吸をする。私が誰かに見つかる前に夕凪をここに連れ戻せば、お咎めはないだろう。 「……難儀じゃぁのぅ」 旦那に気配を気付かれぬように盗み見ているだけだが、それでも分かる。この旦那は夕凪を愛おしく想っておる。月夜の明かりに照らされた蒼白い顔。床入りをした姿の旦那なのに、それでも心だけは貰えなかったかのような表現をしておる。 あぁ……この旦那は知っておるのか。夕凪に情夫がおることを。そして、それも致し方ないと腹に決めておる。 私は夕凪の座敷を離れ、裏庭に足を進めた。この時刻だ。見世の中にいるかもしれん。 引っ掻き回すように見世の物置部屋を見て回る。 ふと、いつもは使われていない一部屋から囁き声が聞こえてきた。 その部屋から伸びる僅かな光が、裏庭の紫陽花を微かに照らしている。月明かりがぬるりと存在を示すように、その僅かな光を消し去った。 まるで御月様が逢引きを手伝うかのようなそれに、無性に腹を立ててしまう。 「夕凪!」 声を荒げ、部屋に入れば床着を少し乱した夕凪とこの見世で働く男衆がまぐわっていた。慌てたようにふたりは身なりを整える。 この廓で女郎を殺すのは男衆が多い。御法度とされる色恋は憧れを抱き易く、また近くにいて日々を共にすれば身も心も通ってゆくだろう。 「……すんません、花魁」 「夕凪をここから出してやるなどと、口説でも申したか? おまえさんも廓の男だ、出来ぬことを言うでない。夕凪を想うのであれば身を引け。 行け! 去りなんし!!」 私は乱れた着物を直す男衆を蹴り飛ばし、部屋から出す。慌てふためき、廊下に転びながら走り去る男衆。 「姐さん…!! 姐さんなんてことを! わ、わっちのいい人になんてことを言うか?!」 目に涙を溜めた夕凪。 そのほおを引っ叩く。勢いよく手を上げたおかげか、夕凪の身体は予想以上に後ろに飛び、尻餅をついた。それでも気が収まらなかった。 ひとりの遊女が起こす、たったひとつのやらかしで見世の品位は落ちるからだ。この大見世を守り抜いた遊女たちに顔向けが出来ない。 いまや、私がこの見世の看板だ、この鈴屋を守らねばならぬ。そして、叶わぬ夢に身を滅ぼすようなことをさせたくない。夕凪を想ってのことだった。 「泣くのなら! 客の前にしろ! おまえさんの床でどのような表情をした旦那がいると思っておるのじゃ!」 「……姐さんには分からねぇさ」 「あ?」 「情夫のいたことのねぇ、姐さんに分かって溜まるかってぇんだ!」 きッ、と瞳を吊り上げた夕凪は部屋を出て行った。 ……私に情夫がいた試しはない。親父様だけで十分だった。 たしかに分からねぇよ。分かってたまるかよ。 ※1 トイレのこと
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