二匹の兎

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「どうしたんだい」 「すみんせんなぁ。少々御手水に……」 夕凪が座敷に戻ったことをひっそりと確認した後、私も自らがいるべき場所に帰ってきた。座敷に足を踏み入れれば、あれだけ気持ち良さそうに寝ていた旦那はすっきりとした顔付きで起きていた。二階廻しがなんと旦那に話をしたか知らぬが、遊女が抜け出したなどとは言っていないだろう。私は御手水に立っただけ。そうさ、それだけだ。 「夕霧。お主にしては嘘が下手だ」 床布団から這い出た旦那はそう言葉を吐き出す。偽りに長けていたはずなのに、今宵の私はおかしいらしい。うまく顔を作ることが出来ていないらしい。 ……あんな激しい夕凪の表情は見たことがなく、私の脳裏に刻み込まれてしまっていた。 私は正しいことをしたはずだ。男衆との恋など実るはずがない。それに夕凪を買ったあの旦那に、夕凪は御勤めをしなければならない。間違ったことはしていないはずだ。 「申し訳ありんせん。もし、わっちの他に名代が欲しければ、おっせいしてくださんし。ああ、添い寝できそうなおなごが……」 「そんなこと私が求めると思うのか」 「……すみんせん」 さっきから空回りだ。己がなにを言っておるのか分からない。 「帰るとしよう」 「主様……!」 吐き落とされたその言葉に、気を削いだのだと悟り、私は旦那に駆け寄る。旦那は私のその考えを見据えていたようで、私のほおに手を伸ばす。優しく撫でられるその手が、いつもは汚らわしく感じていたが、いまは私を安心させる。穏やかな双眸に覗き込まれた。 「気にするでない。夕霧、今宵はゆっくり休んでおくれ。……お主のそんな顔ははじめて見る。それを見れただけで今宵は随分と楽しんだ」 「……主様だけだ。そのように優しいのは。御言葉に甘えさせて頂きんしょう」 情けねぇがここは旦那の提案を受け入れよう。私は布団の上にミツ指をつく。そしてゆっくり頭を下げた。その時に、結い上げた髪から簪が一本抜け落ちる。旦那との激しい床入りのおかげで緩くなっていたらしい。私はそれを拾い上げ、旦那に差し出す。 「お詫びといっちゃあなんだが、持って帰っておくんなんし。そして今宵のわっちの匂いを忘れないでおくれ」 私の指から抜かれた簪。柔らかく微笑む旦那に、私も笑みを浮かべる。そして布団から腰をあげ、座敷の外にいる二階廻しに声をかけた。旦那が帰ることを伝えると、二階廻しは頭を下げ、遣いの者を走らせるために一階に降りていく。 「また来るよ」 着物を着た穏やかな旦那は私の座敷から出て行った。
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