二匹の兎

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私は仲之町を走る。着物がはだけそうになりながら、息も絶え絶えに懸命に走った。揚屋町で働く者たちがなんだと怪訝そうな顔付きでこちらを見るが、そんなの知ったこっちゃない。草履が脱げそうになりながら京町一丁目の木戸を押し、中に入る。 松屋に入るやいなや、私は大声を出してしまった。 「花扇! 花扇!!」 「誰だい?! 煩いねえ……。なんだい、鈴屋の夕霧花魁じゃねぇかい。……うちの女郎がなにかしたかい?」 顔を出したのはこの見世の御内儀だろう。皺の寄った年を取った女性は心底迷惑だ、と顔に描いてあった。女郎が他の見世に入るなんて女将が言うように、客を取られた腹いせぐらいだろう。ちょうど客が帰り、ひと休みの時間帯、迷惑だというのは心得ている。私だってこんな莫迦なことなどしたくない。ただ、いてもたってもいられないんだ。 騒ぎを聞きつけた女郎たちがぞろぞろと集まってくる。だが、私の形相にひそひそと仲間内で話をするだけ。誰も花扇について喋りもしない、庇おうともしない。 「どうした? 夕霧」 凛とした美しい声が二階から落ちてくる。私含め、そこにいたおなごすべてが二階を見上げた。そこには気怠げな花扇がいる。猫を抱え、こちらを見下ろすその姿は、なんて美しいのかと目眩さえした。 「湯のお誘いか?」 いつものように茶化しながら笑う花扇は、なにも喋らない私を一目見て悟ったらしい。 ──そうかい。と小さく落とした言葉にどうしてか分からないほど涙が溢れそうになった。花扇のおかげでもなんでもない。ただあやつは死んだだけ。 親父様が死んだ。 花扇は人を殺してしまうことに苦しみを感じていた。だからこんなことを言うのは最低で配慮に欠けると思った。でも、どうしても言わなけらばならないような気がした。花扇が殺した気がしたからだ。花扇が殺してくれた気がしたから。 「ありがとうござんした……」 「夕霧」 「ありがとうござんした」 商売敵に因縁をつけることはあっても礼をいうことなど、この廓にない。私が頭を下げたことで、その場が騒ついた。花扇がこの場でミツ指つけと言ったら出来るような気がした。 「ここは目につく。上がってこい。ちょうど二度寝をしようとしていたところだ」 私が顔を上げるとあたたかな顔をした花扇がいた。にゃん、と黒猫が鳴く。
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