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惚れた腫れたの世界から旦那が居なくなると途端に女郎たちから化けの皮が剥がれる。それでいい。男どもの前で作る顔なんか捨てちまえばいいんだ。そうでもしねぇとあのどぶに身投げしちまう。
……そういやぁ、数日前も御歯黒溝(※1)に身投げした女郎がいたなぁ。ありゃ、どこの見世だったか。
明六ツから、朝四ツ(※2)までの時間は女郎にとって必要不可欠だ。寝ずの番で御勤めに励んでりゃ寝る暇もねぇ。この短い時間に寝なけりゃ、夜見世なんてやってられねぇってもんだ。
「夕霧花魁、おはよさんです。湯ですかい?」
「はよう。この廓を上り詰めると一番風呂が貰えるんだ。ありがてぇことよ」
鈴屋から出て仲之町に踏み出せば、声を掛けてきたのは男衆(※3)だった。こんな場所にいる人間なんて、普通じゃねぇってぇのはみなが心得ている。だから、こいつのほおに大きな切り傷があるなんてことは誰も気にしやしない。
「精が出るな。それにしても、おまえさん、その傷がなけりゃ千両役者にでもなれたんじゃないかい?」
「やめてくだせえよ、花魁。おりゃあこの傷があるから男前なんじゃねえっすか」
豪快にがはは、と笑った若い衆(※4)は私と夕凪に頭を下げ──失礼しやす、と先を急ぐように足を踏み出した。あ。という一音を落としたあと、体を戻した男は、なにかを思い出そうと天を見上げた。
空は相変わらず高見の見物をしている。
「そいやぁ、松屋の花扇花魁も禿を連れて湯屋に入っていくのを見やしたよ。ありゃ、良い女っすね」
にかっと笑った男衆。悪気は無いが無神経なそれに怒りを滲ませたのは夕凪だった。
「……わっちの花魁の前で何を言うか!それに……!」
「夕凪さん分かってます。俺のような者と遊女の色恋は御法度。俺にはもう行く場所がねえんだ、そんな下手なことしやせんよ」
またもや豪快に笑う男は踵を返すように見世に入っていく。
夕凪の言い分は分かるが言い過ぎだ。それは彼女が一番分かっているようで、顔を苦く顰めている。叱るのはやめておこう。
あの男衆が言うように、この廓から出たところで未来はないとみなが知っている。
「花扇か……」
京町一丁目の大見世に構える松屋。私と彼女は吉原細見(※5)に載っている番付を争う商売敵。鈴屋の夕霧か松屋の花扇か、そう言われる私たちだ。
※1 廓の四方をぐるりと囲む溝。汚水が流れており逃亡防止の意味もあった
※2 江戸の時刻で朝十時頃
※3 遊廓で働く男の人たちのこと
※4 男衆の別名。遊女はどれだけ年老いた男衆でもそう呼んだ
※5 吉原のガイドブック。歩き方、料金や遊女の順位などが記載されているもの
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