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「どうしなんすか、姐さん。花扇花魁がいるとなりゃあ、気も休まらんにありんしょう。出直しんしょうか」
「……花扇如き、わっちが引き返すのも嫌ざんす」
桶と糠袋を持ち、夕凪の気遣いを知りながらも足を進める。
私があの遊廓一と謳われた花扇を知ったのは、八朔(※1)の夜だった。あの日は、引手茶屋(※2)まで仲之町を練り歩く花魁道中を、松屋の花扇が豪華絢爛に取り行っていた。
茹だるような暑い夏、団扇片手に自室からそれを眺めていた私は、ああこやつには勝てねぇなと悟ってしまった。
白無垢を着た艶やかな花扇は吉原細見に相応しい。商売敵はいつだって憎らしいが、薄青い妖艶な夜に一筋差し込む月を味方につけた花扇。生死を超越したあの悍ましさをも感じさせる姿。あの夜はこれからも私の胸を焦がしてやまない。そして、客から客へと語り続けていくだろう。
「それにしても、花扇は年季を全うする(※3)気でありんすかね? まっこと鬼が吉原に居座っているのは気色がわるうござんすよ……。京町一丁目だとしてもじゃ」
夕凪は細いまなこをより、細め、身を震わせた。
花扇の別名は鬼だ。この籠の中には、鬼がいる。
人間を喰い、人間を惑わせ、人間を誑かす、鬼。
「知ったこっちゃないよ。吉原細見じゃ、わっちと肩を並べておる。それなりに身請けの縁談だって来ておろう。旦那の手を借りて出ようが、出まいが勝手さ」
「……姐さんに御話しはきてねえのか?」
この廓の中に入ってしまえば、未来はない。与えられる苦界に従順に生きていくしかないのだ。だが、ここで唯一選ぶ権利が与えられていることがある。それは、手助けを借りて出るのか、それとも己の力だけで出るのか。たったその二択だけ。
「偉くなりんしたなあ。もうわっちの客を狙っておるのか」
「そんなこと! 滅相もござんせん。ただ、姐さんには幸せになってもらいたいのでありんすよ」
冗談を交えて夕凪からの問い掛けを有耶無耶にする。もげちまうかと思うほどに首を横に振ったあと、私を柔らかく見つめてくる夕凪。
夕凪を売った親は、この娘を一目見たときどんなことを思うのだろうか。立派に育った子を誇らしく思うのだろか。……所詮、女衒(※4)に売り、金にしたのだ、この娘の良さなどわかるはずもない。わかってほしくもねぇな。
「おまえさん、よぉ育ちんしたなあ。わっちは鼻が高い。……急がなくても、わっちはおまえさんより先にいなくなる。そうしたら鈴屋はおまえさんの天下だ。わっちの客は全部、おまえさんに託すよ」
「夕霧姐さんのおかげにありんす。もー、そんなことおっせいすなんて酷ぉござんすよ。姐さんがいねえ廓なんて、魚のいねえ、びいどろだ」
にか、と歯を見せて笑った夕凪は私の手を取り、湯屋に向かう。
誰にも言えない真実が私の奥底で渦巻いていた。
※1 八月一日のこと
※2 遊廓で遊ぶためのすべてを取り仕切ってくれる場所。客の性格や身分に合わせた遊女を紹介したり、またそこで宴会などをしたりする
※3 借金を返し終わり廓を出ること。年季開けとも言い、借金のことを年季と言う
※4 買った女を遊女屋に売る周旋を職業とする者
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