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引手茶屋の二階に設けられた座敷ではどんちゃん騒ぎが繰り広げられていた。三枚歯下駄を脱ぎ捨て、素足になった軽いはずの足が、どうにも重い。階段を上がる私の足取りは客を焦らしているというよりは、逃げ出したいものだった。
それでも遣手(※1)が睨みを効かせているのだから、逃げ出す隙もありゃしねぇ。今宵の客は羽振りのいい者だ。遣手のふっかけにも動じないだろう。
今頃、花代(※2)を惜しげもなくばら撒いているさ。
はぁ……と溜め息が思わず出た。隣にいる遣手が私の肩をぱしん、叩く。
「そんな顔をするんじゃない! 大切な客人だよ。おまえさんのその顔で登楼なくなくっちまったらどうすんだい?!」
「わっちは元からこういう顔にありんす……」
「莫迦なことを言うな!」
旦那が待つ座敷の前で、ひそひそとそんな会話をする。どんなに悪態をつこうが、それでもやるしかないのだ。私はひとつ深呼吸をし、身を引き締める。それを見た遣手が障子を開いた。
「鈴屋、夕霧花魁が見えましたよ」
「入りんすえ、旦那様」
遣手と私の声が座敷に広がる。
上座に座る旦那の隣には夕凪が座り、旦那にお酌をしているところだった。舞を舞っていたと思いし太鼓持ちは私に頭を下げる。
「おぉ! 遅かったではないか」
「つれぬことをおっせいすな、主様。そこからわっちの道中を見ておったであろうに」
「夕霧には勝てぬな。ほれ、こっちにおいで」
夕凪が旦那の隣から外れ、私の席を作る。旦那の目の前にある豪勢な食事、そして盃。
あぁ……こやつに酒を注がねばならぬ。
上座に足を運び、旦那の隣に座る。ゆるり、私の膝に置かれた手に背筋が震えた。それを隠せるのが遊女というものかもしれぬ。
「さぁ! たんと酒を持ってきておくれ。ほぉらほら、三味線を!」
上機嫌の旦那の言葉に太鼓持ちや幇間は自身の仕事を始める。三味線が掻き鳴らされ、私は近くにいた禿から煙管を貰う。
……と、その前に旦那にお酌を。指の先から手の先までこの行為に染まってしまった。それが好きだと言っていた旦那の空いた盃に酒を注ぐ。くい、とそれを飲み干す旦那は優雅に舞を見つめていた。
こやつがただの旦那ならとても良い客だ。酔い潰れ強引なことも無理強いもしない。粋な旦那だ。
だが、この旦那に身を滅ぼされたとあっちゃぁ、話が違う。
このどんちゃん騒ぎが終われば床入りだ。どうにも気が重い。
※1 妓楼で遊女や新造や禿を監督する女。遊女たちを監視するほか、客を品定めし、座敷を取り持ったりする
※2 揚屋の従業員、芸者、幇間への祝儀代。禿や後輩女郎にも支払う為、それなりの額になる。揚代(遊女を買う時の値段)とは違い、揚代と花代を合わせた金額が一晩のものになる。
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