寧日に沈む

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花扇の旦那は私が座っていた茶屋に金を投げ棄てた。私が食べた水菓子と茶の代金だ。一晩に稼いでいた値段の足元にも及ばない、はした金。 私と花扇は目をまぐわせる。そしてひとつ笑みを浮かべた。 「それは黒無垢かい?」 「そうさ。ほんに妾になった花扇に見られるとは恥ずかしいが、この姿で出るのが長年の夢でね」 水茶屋の金を払って貰ったという意味が全身を駆け巡る。これでまた年季生活だ。だが、私の隣に花扇がいる。 私は花扇の夫となる男からそう訊かれ、偽るように誤魔化した。黒留袖を着た女と、黒無垢の女。 この男はいつか私たち両方を抱くだろう。 「誰か好いた男がいたのか?」 「……あまりいじめなさんな。これから私の足となり手となるんだ。逃げ出されては困る」 穏やかな顔付きをした花扇は、しっかりと私のほうを見ている。逃げ出すわけなかろうに。本当に嫌な女だ。厳しい口調だが、花扇が私を見つめる瞳は柔らかく、愛されているのが分かる。私はもう花扇から逃げ出すことは出来ぬ。 廓から遠去かる。ゆっくりと確実に。 「ああ。あの世で添い遂げられればよいのだが、ほんに愛した人がおってな。黒無垢は言い伝えがあるだろう。あれに願いをかけてみたんだ」 黒無垢には言い伝えがある。 私はすでにあなたの色に染まっている。 私のまことの心が花扇に伝わるだろうか。 私たちの前に籠が現れた。それは妾となる花扇が乗る物であって私の物ではない。この籠に乗れば、晴れて花扇は吉原から抜けられる。私もだ。 「その話は今宵の酒の肴にでもしよう。その着物は目立つ。どこかで着替えてもらおう。私の座敷にそれで入られては困るのだ」 「ああ、勿論だとも」 御天道様がじりじりと私たちを焼く。暑さに身を焦がし、恋に溺れた。黒無垢姿を花扇に見せることが出来たのだからそれで、こやつはお払い箱だ。売ったっていい。花扇が憶えていてさえくれれば。 「手を。夕霧」 籠に乗る前、花扇はそう私に命令した。私は確かに花扇の召使いだ。差し出した手を緩やかに撫でられ、花扇が身を寄せてくる。 「よぉ、賢いことをした」 「……今生の別れにはしたくなかったんだ。私にしてはよくやったもんだよ」 「ありがとよ」 籠に入る前、花扇は小さくそう言った。私の心を包み込むその言葉。はじめて見たその幸福そうな笑み。 「御職の花魁がふたりいれば、どんなことでも叶うだろうよ」 「ああ、そうだな。夕霧よ」 了
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