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彼は店の引き戸をガラガラと開けた。 「入る?」 彼はチラッとこちらを見た。 私は首を横に振った。 「じゃあ、そこで待ってて」 彼は店の奥へと入って行った。 私は軒下のベンチの端に腰掛けた。 夜の公園の池は全てをのみ込んでしまいそうな程に暗く、底知れない闇に私は体を震わせた。 雨が池に落ちて弾ける音が響く。 「はい」 戻ってきた彼はタオルを私に渡した。 「え、ありがとう」  私はフードを取って、受け取ったタオルで濡れた髪を拭いた。 ふわふわなタオルからほのかに甘い柔軟剤の香りがした。 彼は少し距離を置いてベンチに腰掛けた。 「......」 お互い沈黙が続いて、雨の音だけがやけに響く。 「この前の夜、タップダンスしていたのは弟さんの方だったんですね」 沈黙に耐えきれず私は口を開いた。 「ああ」 彼は店の壁に背中と頭をつけて、感情なく小さく頷いた。 「昨日、私もタップダンスしたんです。  お兄さんのレッスン、とても楽しかったです」 「うん」 今度は同意するように深く頷いた。 温かみのあるその声に私は少しほっとした。 「自分の足踏みに合わせて音が返ってきて、足から振動が伝わってきて、 『あ、自分って今ここにちゃんといるんだな』ってそんな風に思ったんです」 その時のことを思い出すと不思議と感情が溢れた。 「自分のリズムや音を感じ、自分をみつめていく」 彼は呟くように言った。 「あ、それお兄さんも言ってました」 「兄貴は、この暗い池の底に全てを沈めたんだ」 彼は目の前に広がる暗い池を寂しげな目で見つめた。 「池に沈めた......?」 「自分の願いとか想いとかそういうもの全てを」 「それは......」 池の前で目を瞑って立っていた寒川さんの苦しそうな表情を思い出した。 何があったのか、何故そんな表情をするのか。 聞きたいことは色々ある。でもーー 「すくえないですかね?」 私は尋ねた。 「?」 「いえ、」 私は水を掬うように両手を重ねて下から上に動かした。 「池の底に沈んでしまったなら、掬えないかなと思って」 彼は不思議そうな表現でこちらを見つめる。 「私、いつの間にか先のことばかり考えて『今の自分から逃げ出す癖』がついてしまっていたなって思ったんです」 夜の暗さが私を素直にさせる。 「こんなことしたって意味がない、きっと私には出来ない、続かない、時間がもったいないって、頭で色んな言い訳をつけて今の自分の気持ちから逃げていた」 私は顔を上げた。 「でも、タップダンスをやってみて思ったんです。 先へ先へと足を急がせる必要なんてない。 自分が今いるこの場所でまずは一歩足を踏み出すことで自分の世界は少しだけ広く深くなっていくって」 私は小さく息を吸い、 「だから、今、自分に出来ることがあるなら、一歩踏み出してみたいんです」 彼の目を見て言った。 彼はそれに応えるようにその力強い目で私を見つめた。 私はこんなにも自分の気持ちを誰かに言葉にしたのは久しぶりで、急に恥ずかしくなり、 「最中の上の皮で餡子を掬うように、寒川さんの願いとか想いも掬えたらいいのにって思って」 と少し誤魔化すように言った。 「最中はその食べ方が一番美味(うま)いよ」 彼はふっと表情を緩めながら優しい声で言った。 今、彼との距離がとても近く感じた。 「俺は、兄貴が幸せならそれでいい」 彼は暗い空を見上げてそう言った。 彼が真夜中に一人でタップダンスを踊ることは、お兄さんのことと何か繋がりがあるのだろうか。 彼はお兄さんのことも、タップダンスも大切で、だからこそ一定の距離を置こうとしている気がした。 彼につられて空を見上げると、いつの間にか雨は止んでいた。 「あ、雨止みましたね」 「送る」 彼はそう言ってベンチから立ち上がった。
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