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出会い系のサイトで、しかもワンナイトが目的の男が大部分を占めるゲイ向けのサイトで、その男から送られてきたメッセージは異質極まりないものだった。
【こんにちは 好きな本を教えてください】
好きなタイプなら、わかる。
細身の男が好きだとか、年上が好きだとか。
本。
全く想像もしていなかった単語に、それでも嫌悪感を抱くどころかむしろ興味すら湧いた。あけすけに性を求める環境に身を置きすぎていたからかもしれない。物差しで測れるような体のサイズだとか、データとして扱われる年齢とかの数字以外の部分で、精神の奥底にあるような部分に関心を持たれていると感じたのだった。
真咲が見た目によらず読書家であることを、インターネット越しの男は知らないはずだった。
気怠げな雰囲気を絶えず身に纏っている真咲は、読書どころか生きることそのものにすら興味を持っていないと誤解されることが多かった。
頭の中で蠢く思考の濁流に身体中のエネルギーが持っていかれているだけで、生きること、食べること、文化的な何かに触れることは人並み以上に好きだったし、出会い系のサイトに入り浸るほどには性的な欲求も強い方だった。
兎にも角にも、【コト】と名乗ったその男から、自分の本質的な部分を求められて、真咲は性的興奮とはまた違った種類の昂りを感じていた。
迷いながらも、スマートフォンをいじって返信をする。
【こんにちは。本はわりとなんでも読みます。読書にはまったきっかけがメロスなので、太宰は結構好きです】
簡単に送ると、すぐに返信が返ってきた。相手も大概暇なのかもしれない。
【返信ありがとうございます。この文面で送ると返信がないことがほとんどなので嬉しいです。太宰がお好きなんですね。谷崎は読みますか】
【何作かは読んだことがありますが、それほど詳しくはないです】
【春琴抄は読みましたか】
【はい。凄まじい内容ですよね】
【好きですか】
【面白いとは思いました】
矢継ぎ早にメッセージが送られてきて、次の瞬間には日付と場所が記載されたメッセージが届いた。
【この日程で会えませんか】
唐突なお誘いに少々慄いたが、休みの日だったし、沿線沿いのカフェだったから特に問題はないだろうと思い、【いいですよ】と返信をした。
奇妙な男に会ってみたいという好奇心が働いたのも事実だ。
窓側の席で本を読みながら待っています、という連絡通りに探してみると、確かにそこに男はいた。切長の目をした端正な顔立ちの男は、大型書店のブックカバーをつけたままの文庫本に目を落としていた。
夕方の西日が、男の顔に陰影を作っていた。
絵になる姿というのはこういう状況を指すのだと、真咲は感じた。
生成色の柔らかそうなノーカラーのシャツを着て、時折マグカップに口をつける姿は、眉目秀麗な文学青年という言葉がよく似合っていた。
あんなに性急に、とんちんかんなメッセージを送ってきた男とは到底思えなかった。
向かい合わせのソファ席に近づき、「コトさんですか」と声をかけると、青年はパッと目をあげた。
どこにも曇りがない視線に、真咲は美しさからくる恐れすら抱いた。
「はい。さきさんですか?」
「そうです、よろしく」
真咲が腰を下ろすとコトの目尻には笑い皺ができて、表情は一気にチャーミングになった。これは女からもモテるだろうと思わせる、柔和な笑みだった。
真咲はメニューを一瞥して、ブレンドを注文した。コトはカフェラテを飲んでいるようだった。
「さきさん、年はいくつなんですか」
「二十四です」
コトに質問されて、初めて基本的な情報すら把握していないことを思い出した。そういえば、出会う前に外見の写真すら交換していなかった。精神的なつながりの方が重要だと、お互い夢見心地だったのかもしれない。
「ああ、そうなんですか。じゃあ年下ですね」
「えっ」
「僕は二十八なんです」
「見えない……」
「童顔で」
コトはそういうと恥ずかしそうに笑った。同年代か、むしろ年下だろうと思っていたが。ハタチを超えたばかりに見えるくらいには、コトの姿には生活の疲れといったものが見えなかった。金持ちなのか。
「さきさんは」
「真咲でいいです、本名で」
「マサキ、どういう漢字ですか」
「真っ直ぐに咲く、で真咲です。名前が真咲です」
「ああ、なるほど。綺麗な名前だ」
コトはカフェラテを啜り、穏やかに笑う。今までサイトを通じて出会ってきた、どの男とも違う、緩やかな時の流れに真咲は不思議な感覚を抱いていた。
ゆっくりお付き合い、でも求められるのだろうか。
あの、ヤることだけが目的みたいなサイトで。
真咲の違和感は解消されぬまま、夜になった。今までの流れだったら、このままホテルだが。
カフェを出て、考えあぐねていると、コトの方から切り出した。
「真咲さん、もしよければ、よければなんですけど。ここの近くのホテルを予約してあるんです。一緒に来てくれませんか」
腹が減っているとか、結局はセックス目当てか、とか言いたいことは色々あったけれど、真咲にしたってこの男の奥底を、もう少し覗いてみたいという興味があった。それがベッドの上だろうが、硬い椅子の上だろうがどちらでも良かったのだ。
ホテルは、高級とは言わないまでも高級路線のシティホテルの一室だった。ベッドはダブル。
そういえばこの男のポジションをまだ聞いていない。タチだったら嬉しいけれど。一応持ってきた準備のためのあれこれを思い出しながら真咲が振り返ると、コトはほんのり頬を蒸気させて、両手で文庫本をギッチリと握りしめて棒立ちになっていた。
カバーが外れている。
真っ赤なカバーに描かれたタイトルは、春琴抄。
「真咲さんは、内容を覚えていますか」
「大体は」
「僕は、僕は佐助になりたいんです」
「え……?」
うわずった声で興奮気味に喋るコトに、真咲はたじろぐばかりだった。
「この本を読んで、衝撃を受けたんです。僕も、佐助のように誰かを愛して、一生を賭けて愛し抜くほどの熱烈な恋がしたい。それが長年の夢だったんです」
「……なんで俺を」
「ええ、ええ、奇妙に思われるのも無理はありません。ですが、僕は肉体的な繋がりよりも、もっと深い何かで繋がれる相手を探していたんです。だから、わざとセックスを求める場で声をかけた。そこで反応を返してくれる人なら、真に僕のことを理解してくれる人に違いないって。ああ、その顔。女を求めればいいって思ってるんでしょう。僕は女には、ええ、春琴抄は男女の物語ですけど、僕は男がいいんです。なぜって、理屈で説明できないのはあなたもわかるでしょう? 男か、女か、はたまたそのどっちもか、なんて説明できないんですよ。業とか、因果とか、そんなわけのわからないものを使わないと説明なんて無理なんだ」
息を吐く間も無く、滔々と喋り続けるコトに、たじろぐ反面、仄暗い喜びが体の底から沸々と湧き上がってくるのを感じていた。
一生を賭けて、「盲目的に」自分に尽くしたい、と目の前の美丈夫はそう宣っているのだ。ワンナイトが後腐れもなくていい、と自分に言い聞かせてきた真咲にとっては、甘美な響を持っていた。
「俺を、愛したいってそう言うんですか」
「ええ。全てを捨てて、尽くしたい」
「今日会ったばかりなのに?」
「出会いとはそういうものじゃないですか」
真っ直ぐな瞳は狂気に近いものがあった。踏み込んではいけない。頭の中でそうアラートが鳴っている。まだ彼は理性的だ。嫌だと言えば、帰してくれるだろうことも。
でも。
壊れてしまいそうな大きな愛を、味わってみたくなった。
「俺のためならなんでもできるんですか」
「……っはい、なんでも」
「仕事を辞めろって言ったら」
「辞めます」
「裸になれって言ったら」
「スクランブル交差点の真ん中だったとしても素っ裸になってみせます」
声を弾ませながら、コトは忠誠を誓う。
「俺がひどい火傷になったら?」
コトの顔がぱあっと輝いた。お預けにされた餌を許された仔犬のように。
「言われるまでもなく、目をつきます」
嬉しそうなコトに真咲の胸の底は薄暗闇色の悦びで満たされていった。
「上出来」
「ああ、ああ……!」
エクスタシーを感じているように、コトは体を震わせた。
「じゃあ、まずは悦ばせて見せろよ」
「はい……!」
情欲の糸で雁字搦めになる二人の夜は、この日始まったのだった。
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