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トンッ、と音がして、矢が的の中心を射る。
「お見事です。姫様」
佐藤季春(すえはる)は素直に称賛した。季春は、平泉(現岩手県平泉町)を拠点に奥州を支配する藤原清衡の跡取り息子・小次郎の乳兄弟である。今年十二となり早々に元服した。一日も早く若き主を守れるようになりたかったから、季春自身にとっても元服は願ってもいないことだった。
「さあ、次は季春殿の番ですよ」
そう促すのは、先ほどから全ての矢を的の中心に当てている強面の武士、ではなく、雪のように白い肌を持った妙齢の女人で、名を環といった。
環の父は安倍宗任といい、五十年以上前の奥州の大乱で無実の罪で朝敵扱いされた安倍一族の生き残りとしてはるか南の大島に流罪となった。環はその流罪先で、宗任が密かにもうけた子であり、やはり安倍一族の血を引くものとしての苦難の末に奥州の覇者となった清衡が、手を尽くして引き取り養女とした。
安倍宗任は清衡の母の同母兄であり、つまり環は清衡の従妹にあたるが、五十代半ばの清衡とはだいぶ年が離れており、まだ十七歳の乙女であった。
だが、その白い顔はいつも落ち着き払っており、女性らしい柔和な雰囲気が現れることもなく、一部の者から氷のような女だと陰口さえつぶやかれていた。
一方で女だてらに弓や乗馬の腕はなかなかのものであり、彼女の弟分のような小次郎と季春はこうして弓を習わせてもらっているほどである。
季春は気を引き締め、先ほど見た彼女の美しい姿勢を思い出しながら弓を引く。だが、その弓は環ほどの勢いはなく、的の中心からは少しはずれた所に刺さった。
「上出来ですよ、季春殿。次はきっと中心に当たるでしょう。さあ、次は若の番ですよ……若?」
若と呼ばれた少年、清衡の次男である小次郎はしかし呆けたような顔で反応しない。乳兄弟である季春と同じく十二となるが、元服はまだである。環でさえ男物の狩衣で稽古場にいる中で一人童子姿なのもあいまって、環の方をただボッーと見ている姿はとてもしまりがない。
「……わ、若、若! 若の番でございますよ」
「……あ、うん、わかった……」
季春が側近くで呼びかけて、やっと小次郎は正気づいたらしく、のろのろと弓を構える。
だが、小次郎の矢はヘロヘロと飛んで、的どころかその手前で力尽きて地に落ちる。
「まあ、若。先ほど教えたことが全くできていないではありませんか」
「……うんっ」
「私が弓を引く姿をよくご覧になっていてください、と申しましたのに」
「うんっ……」
「若が弓を習いたいと言うから、こうして稽古をしているのですよ。季春殿などもうだいぶ上達されたというのに、若ときたら……」
「……うんっ」
「私の話、聞いております?」
「うんっ……」
何を言っても自分を見たままふわふわした返事しかしない小次郎に、環は小さくため息を吐き、季春の方を向いて言った。
「季春殿、何やら若は稽古に身が入らぬご様子。今日はもう終いとしま……」
「あ! ううん! やる気あるよ! ものすごくあるよ! 今ものすごくやる気出てきたぁぁ!! だから環姉様、稽古の続きお願いいいい!!」
突然、終了宣言をしかけた環の言葉を遮って小次郎は先ほどの呆けた様はどこへやら、猛然と訴える。
「なっ、季春ももっと稽古やりたいよな? なっ?」
「そ、そうですよ、私もやりたいです! 姫様、こう見えて若はやる気充分なんです。充分過ぎて傍目にはちょっと呆けているように見えるだけです!」
突然主に同意を求められて、季春も懸命に訴える。とっさの事でここまで主に合わせられるとは、小次郎の事情を知っている者からすれば称賛すべき息の合い方と思うであろう。
「……左様ですか? 何か不自然ですよ、二人とも?」
「いいいいえ、そそそそんなことないですよ?」
季春は背中に汗をかきながら必死でごまかす。
言えない。
小次郎はすでにそこそこ弓矢の腕も経つが、環に相手をしてほしい一心で稽古を頼んでいるなど、と。
季春の主は二年前、初めて環と顔合わせして以来、この年上の女人の事で頭がいっぱいなどと。
あまつさえ、いざ稽古が始まると環の事を見つめるのに夢中すぎて、稽古どころか彼女の話さえ耳に入る余裕などないことなど。
幼い頃から乳兄弟として仕えたこの主が、ここまで思う女人といつか結ばれる日が来るようにと季春は願ってやまない。
だが再び始まった稽古で、またしても完全に上の空になった小次郎を叱る環と、叱られても馬耳東風どころか何か嬉しそうな主を見て、これはちょっと二人の仲はやはり絶望的かもしれない、と季春は小さくため息をつくのであった。
季春の懸念はともかく、結局のところ元服し、基衡という名となった彼の主は、無事に環を正室に迎えることになる。基衡は紆余曲折の果て清衡の後を継いで平泉の二代目主となり、環は観自在王院という寺院を建立したり、新しい仏事を導入したり、旅人のために救護施設を作ったりとその聡明さと有能ぶりを発揮して、平泉の発展に尽くした。
季春も基衡の一番の側近として、陸奥国の入り口にあたる信夫郡(現福島県福島市一帯)の守りにあたり、夫妻の治世に尽くす。
やがて三人はとある悲劇的な事件でも歴史に名を残すことになるがそれはまた別の話。
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