女心と冬の空

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 トントンカラリッと広大な衣河(現岩手県奥州市衣川区)の館に地機(平安末期の織機)の音が響く。  ふと、人の気配を感じて機織りに集中していた十五歳の志津は顔をあげた。見るといつのまにか、父の藤原基成が来ていて志津を見てにこにこ笑っていた。 「ああ、冬は良いなぁ。我がじゃじゃ馬娘がおとなしく女らしい仕事をしていてくれる」  父の言葉に志津は軽くため息をついて応えた。 「さすがに陸奥の冬に遠駆けなどしませんよ」  藤原基成とその娘の志津は、元は都の住人であった。もっとも父の基成は志津が産まれてすぐに陸奥守として奥州に赴任し、十一年という異例の長さの任期を終えるまでは都の邸にはたまさか帰ってくるくらいであった。  志津の母は彼女が幼い時に亡くなった。父は奥州から人を遣わせたりするなど娘の生活が困らぬよう気を遣ってはくれたが、結局幼い頃から志津は邸を取り仕切る主として振る舞わざるを得なかったゆえ実にしっかりした娘に育った。一方で、口うるさい両親がいないのを良いことに、女性らしい素養を身につけるのをさぼり、己の関心の赴くままに政の話に興味を持ったり、父の陸奥土産の奥州馬を乗り回して過ごし、基成が任期を終えて都で娘と暮らすようになってからはそのありさまに愕然とされたものだった。  危機感を感じた父は遅ればせながら娘の女としての教育に力を入れ始めたものの、すっかり根付いてしまったじゃじゃ馬気質がそう簡単に改善されるわけもない。  唯一、女らしい好みと言えば機織りが好きなことであったが、これは昔からのことで父の教育の賜物というわけではない。  だが、都での父との同居生活はあっけなく終わってしまう。  今から約一年前の平治元年、都で大きな政変があった。  この政変の結果、武門の名門であった源氏が没落し、武士である平清盛が権力を握った。  この時、政変の一方の首謀者で敗者となった藤原信頼は基成の異母弟であり、その関係から清盛が天下を取った都にいては身の危険があると感じた基成は志津を親類に預け、陸奥守時代に懇意となった奥州平泉の主・藤原秀衡を頼って逃げ出した。  その後、文も来ないことを心配した志津は自ら平泉に赴くことにしたのだが、波乱万丈な北への旅の果て父と再会し、秀衡によって平泉の中心寺院である中尊寺の北にある衣河の地に館を与えられて住まっている。  そして陸奥に来て初めての冬を迎えた。  広々とした奥州で、父が嘆くのも気にとめずあちこち馬で駆けるのを楽しんでいたが、さすがに奥州の冬は話に聞いていた以上に寒く雪が多く、都育ちの志津はとても外に出ることができず機織りをして毎日過ごしていた。  都の冬もそれなりに厳しいが、やはり奥州の冬とは比べものにならない。 「私も陸奥守として奥州暮らしは長いがね。あの頃はここより南の多賀の国府(現宮城県多賀城市)の国司館で過ごしていたからなぁ。あそこでも冬は厳しかったが、それでも平泉ほど底冷えはしなかった……」 「まあ、そうなの。奥州とはいえさまざまなのね。そう言えば秀衡様が仰っていたけど、これでも北の外ヶ浜や山を越えた出羽に比べれば平泉はだいぶ過ごしやすいみたいよ」  聞くところによると、寒さも雪の積もる量も平泉よりずっとすさまじいという。都から来た志津からすれば、背丈よりも高く積もる雪の話など物語の世界の話のようだ。 「いったい外ヶ浜や出羽はどんな地なのかしら。あちらまではまだ旅していないから冬が明けたらぜひそちらにも行ってみたいわ」  都から女の身で平泉まで来たことで、志津はすっかり旅というものに自信を持っていた。秀衡の威光が隅々まで及ぶ奥州は東海道よりよほど安全だし、ここまで旅してきたように男の身なりをして馬で向かえば良いだろうと思っている。  うっとりとした口調で雪解け後の日々に思いめぐらせている娘に、今度は基成が大きくため息をついた。 「ぜひそっちに、ではないぞ姫や。年が明けたらおまえももう十六だ。そろそろ秀衡殿の北の方になろうという者が、そんな馬に乗ってあちこちふらふらなどして良いわけがないであろう」 「お父様、話を進めないでくださる? たしか私が十七になるまでは秀衡様の元に嫁ぐかどうかのお返事自体しなくて良いって話になっていたはずよ」  今度は志津が頭を抱えたい気分だった。  実を言うと平泉で暮らし始めてしばらくしてから、父が縁談を持ってきた。お相手は誰あろう、父とほぼ同い年の、つまり志津からすればまさしく「父親ほども年の離れた」御年三十八歳の奥州の支配者・藤原秀衡であった。  都を追われた父は、この平泉に根をおろすことを決めた。ならば単に落人としてではなく、平泉の政に大きく関わりたいという野望を持っている。  奥州には、院の近臣であり長年陸奥守を務めた基成の娘ほどの身分を持った女人は存在しない。秀衡に嫁がせるなら必ず正妻として扱われることであろう。  秀衡にはすでに家臣の佐藤氏の娘との間に男子があるが、母親の身分がものを言うので、男子が産まれれば次男であっても必ずその子が跡取りに選ばれる。基成は次代の奥州の外祖父として大きな地位を築くことができる。  父は、都の大多数の貴族のように奥州の人々を「野蛮な蝦夷」だのなんだのと下に見ない。だからこそ、陸奥守として平泉とも実に良好な関係を築けたのだろう。  それでもやはり父は都の人間だ。こういうふうに権力を得ようとするのはまったく都の貴族の伝統的なやり口そのものだ。  一方、秀衡は秀衡で、基成のような都の貴族の娘を貰えるのは願ってもいない話らしい。清盛のために都に入られなくなったとはいえ、院の近臣である基成は都に多くの人脈をまだ持っていた。基成の娘を娶れば、都との関係が強化され、それは奥州の安泰と繁栄につながる。  だがこの縁談に前のめり気味な父とは違って、秀衡は鷹揚にかまえていた。  奥州のために基成の娘を正室に迎えたいが、もし志津が嫌ならばこの話はなかったことにしても良いと言ってきている。  およそ娘の意向を尊重してくれるなどあまり聞いたことのない話だが、志津は基成を探して平泉を目指して旅していた時に秀衡とは浅からぬ因縁が生まれている。  それもあってそのような異例な対応を取ってくれているのだろう。  ともかく、結婚の返事は二年ほど待ってくれる話に二人の間ではなっていた。  だが、そんな話に納得できていないのが父である。 「いくらそういう話になっているとはいえだな、二年待たせたるのは秀衡殿にも悪いであろう。秀衡殿とていつまでも正室の座をあけておくわけにもいかぬであろうに」 「それもそうですね。ではいまのうちに断ってきましょう」 「なぜそういう話になるのだーー」  志津のあっけらかんとした言い草に基成は大きな声をあげる。もっともこんなやりとりは二人の間ではよくあることであった。 「なぜって、だって仰る通り二年もお待たせたあげくやっぱりお断りしますなんてなったら秀衡様に悪いでしょう。なら早めに断って秀衡様にはさっさと別のしかるべき人を探してもらった方が……」 「いやだからなぜ断る方向で話を進めるのだ」 「なぜもなにも、だいたい私がいつ秀衡様に嫁ぎたいですなんて頼みましたか!?」 「いったい秀衡殿の何が気にいらないというのだ。あの方は、都にさえ二人といない傑出した政治家だ。この奥州をここまで繁栄に導き、あの清盛だとて秀衡殿がいるからこの地には手を出せない。文にも武にも優れ、人柄だって申し分ない。おまえも随分世話になったであろう」 「もう、お父様。そんなに秀衡様が素晴らしい御方で縁を結びたいなら、お父様が嫁げばいいじゃない!」  志津のあまりの言いぐさに基成は口をパクパクさせる。もしかしたらある意味図星をついてしまったかもしれない。どういう意味で図星なのかあまり考えたくはないが。 (どこが気に入らないですって!? まず年齢差を考えてよ! 二十三歳差なのよ私達!)  秀衡は確かに志津に優しいが、これだけの年の差があるのだ。娘も同然の年頃の者に優しくするなど簡単であろう。むしろ奥州の王たる者が、小娘に優しく振る舞えないほどの人間だったらそちらの方がまずいではないか。  結婚の話は横に放りなげておいて、秀衡の政務の合間を見て彼の住まう平泉館に遊びに行けば唐菓子をくれる。奥州の珍しい話をたくさん話してくれる。まるで叔父と姪のような気安い関係でいたかったのに、結婚だって? (それにあの人「たぬき」だしねぇ)  いつか夫になるかもしれない男を志津は内心でたぬき呼ばわりする。  彼が優れた政治家だという事は志津にもすぐわかった。一方で、それはつまり抜け目ない、裏の読めない人間だということだ。直情型の志津にはモヤモヤすることも多いし、それ以上に底知れないものを感じてしまう。たぬき呼ばわりでもしていないとやっていけない。 (……それに……)  あの方は奥州の王だ。この北の地の人々の運命を彼が一身に背負っている。  もしそんな地位にいる人の正室になるというなら、己が支えなければいけない。正室とはそのような立場の女だ。だが、自分にできるだろうか、そんなことが?  ……あの何でもこなす人の隣に並び立つ自信がどうしてももてない。あるいはなんの期待も持たれず、ただ都に連なる男子を産むだけを望まれて生きていくことに耐えられない。  衝撃から立ち直った父はまた何か小言を言っている。志津は小さく息を吐いて言った。 「お父様、今この話を続けても埒があかないわ。それより、この弓籠手を完成させたいの。うまくすれば今日中に完成できそうだし」  胸に生まれた昏い感情を打ち払うため、機織りに集中したかった。機織りは、集中すれば何もかも忘れさせてくれる。  娘とのこんなやりとりに慣れている基成も、たしかに埒があかないと思ったのか、あっさりと引いた。 「ああ、そうだな。……しかし姫や、私はあまり狩りにはいかぬからね。弓籠手は間に合っているよ」  疑うことなく己のために娘が狩りなどの時に片腕にまとう弓籠手を織っていると父は思っている。もちろん、いつもいろいろな物を父のために織っているのだからそう思うのも無理はない。 「今回のはお父様にじゃないわ。秀衡様によ」 「……なんだって?」 「ほら、秀衡様って狩りがお好きじゃない? この前遊びに行った時も雪が解けたら私も連れて狩りに行きたいと仰っていたわ。せっかくだから新しいものをと思って……」  そこまで言いかけて志津はハッとした。父が再び意味ありげな顔で笑っている。 「そうかそうか秀衡殿のために。なるほど、おまえも何だかんだと言って実は……これは早めに婚礼の衣装を用意せねばならぬかな……」 「ち、違うわよ! いつも唐菓子とかもらっているからその御礼よ! どうせ外に出られないから暇つぶしでえ織っているだけ……お父様、聞いてる!? 意味ありげに笑うのはやめて!」  いつの間にか振り出した雪に包まれながら、衣川の館では都から流れてきた姫のかしましい声がしばし響いた。
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