青葉繁る

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「十郎殿ー」 「義兄上、息災でおられたか?」  ほがらかな二人の男の声が聞こえ、伊具十郎こと平永衡(たいらのながひら)は建立中の社から声のする方に目を向ける。  まだ幼さをほんの少しばかり残すがっしりした体格の若者と、落ち着いた、そしてどことなく飄々とした雰囲気をまとう優男風の男が馬に乗ってこちらにやってくる。 「貞……義兄殿、経清殿……来られるのならば知らせを寄越してくだされば、お迎えにあがったのに……」  永衡は苦笑しながら言う。まだ若く見た目からして荒っぽそうな安倍貞任(あべのさだとう)のみならず、大人びた藤原経清(ふじわらのつねきよ)も二人してこちらの予想外のことを簡単にしてしまうのを永衡は知っていた。 「その義兄上って言うのはやめてくれ。年上の永衡殿に兄なんて言われるとなんだか落ち着かねぇよ」 「それは義兄上なのだから仕方なかろう、貞任義兄上」 「うわぁ、なんだよ経清殿まで! 道中じゃ普通に『貞任』って呼び捨てだったのによぉ」   二人のやりとりを見ながら永衡はくすくす笑う。あいかわらず楽しい義兄弟達だ。  平永衡は、父の代に多賀国府の役人として奥州の地に下向した。その後、伊具の地(現宮城県角田市、丸森町)に根付き、国府の官人として勤めながら伊具郡司となった。  藤原経清も同じような経歴の持ち主で、こちらも国府の官人であると同時に亘理(現宮城県亘理町、山元町)に領地を持ち亘理経清とも呼ばれている。  一方、安倍貞任は多賀国府より北の衣河を越えた奥六郡(現岩手県南部から中部)に勢力を持つ土着豪族安倍頼良(あべのよりよし)の次男で、目の見えない長男に代わって頼良の後継者と目されている。だがいまはまだ二十歳にも満たない威勢の良いやや無鉄砲な若者であった。  時の陸奥守藤原登任(ふじわらののりとう)は、奥州の統治を安定させ、また奥六郡の金山開発に力を入れるため、安倍頼良と良好な関係を築くことを望んでいた。  そこで永衡および経清と、頼良の二人の娘との縁談をまとめた。貞任にとってはすぐ下の妹にあたる娘である。この三人の中で一番若いのは貞任なのだが、おかげで彼は二人の年上の義弟を持つことになってしまったわけである。  陸奥守の政治的思惑はともかく、永衡と経清と安倍の娘たちとの夫婦仲は極めて良好であったし、それ以上に三人の義兄弟は互いを気にいり、気の置けない仲となっていた。 「……それで、志和の地で白山神社の再建を進めていたんだが、貞任殿が様子を見に来て、久しぶりに永衡殿の顔が見たいな、という話になって、そのままの勢いで伊具まで行くことにしたんだ」 「それはそれは、あいかわらずたいした行動力だな、二人とも」  経清は陸奥守の命もあり、いまは亘理の地を離れて奥六郡の北端に近い志和の地(現岩手県紫波町)で安倍頼良と協力して金山の開発を指揮している。同時にその地の安定を願って、かつて田村麻呂征夷大将軍が勧請したがいまは荒廃していた白山神社の再建を行っている。 「いやいや行動力と言えば聞こえはいいが、私も貞任殿も後先考えず動いてしまうだけのこと。永衡義兄上のように常に冷静で、こんな私たちを止めてくださる方がいてつくづくよかったと思うぞ」  貞任は熱くなりやすい男だが、落ち着いているように見える経清もまた時に驚くほど大胆な行動や決断をする。この二人に自分たちの歯止め役を期待されているのはいささか荷が重い気がするが、同時に悪い気もしなかった。 「経清殿の神社の方は順調らしいな……私の方はやっと手を付け始めたところだ」  永衡は背後の普請中の社を振り返る。三人は永衡の館にも行かず、五月の心地よい風の中、揺れる青葉に囲まれて話し込んでいた。 「熊野神社、だったか? ……ここいらの青葉の様子はことのほか美しいんだし、どうせなら青葉神社とかいう名前にしちまったら?」  そう貞任が言う。 「はは、神社の勧請とはそう好き放題にできるものじゃないからな……二人とも今夜は私のところに泊まるだろ? 貞任義兄上はぜひ妻に会ってやってくれ。久しぶりに兄に会えて妻も喜ぶだろう」 「ああ、もちろん。奈加は元気にやってるよな」 「ここの暮らしにもすっかり慣れて元気にやっているよ……それと、私の姉とは会うか?」 「……あ、うん……いや、それは遠慮しておく……」  永衡の姉はひそかに貞任のことを思っていた。貞任だとてまんざらでもないらしく、むかしはたびたび文を交わしていたが、最近ではすっかり絶えている。永衡の姉は、貞任と添い遂げられないなら一生熊野神社の巫女として過ごすとまで言っているほどだ。 「貞任いいのか、……難しいことはあるが、何とかならないこともないだろう」  経清もそう言うが、貞任は首を横にふるだけだった。 「いいんだ……これ以上、安倍と国府の縁者が婚姻を結べば、陸奥守はきっと俺たちに疑いを抱く……」  陸奥守は確かに安倍氏と良好な関係を築くことを望んでいる。しかし内心で北の地に国府でも抑えきれないほどの勢力を築き、そして「蝦夷」の血を引くと言われる彼らを恐れている。  国府の主導で経清や永衡を安倍の婿としたが、ここでまた貞任が永衡の姉と結婚すれば逆に陸奥守の疑念を引き起こす。三人が国府の主導を離れて親しくなりすぎ、同心してよからぬことを考えていると思われかねない。  それは三人の義兄弟にとっても安倍氏にとっても奥州にとっても災いをまねくことにしかならないであろう。まだ子どもだと自由気ままにふるまっているように見えていた貞任も、いつしかその事情を汲むようになり、永衡の姉のことを諦めるしかないと悟ったのだろう。 「……さあ、立ち話もずいぶんと長くなった。そろそろ私の館に行こう。今の時期、館から見下ろす阿武隈川の流れもなかなかのものだぞ。それを肴に今日は飲もう」 「やった! ここいらの酒はうまいんだ。来た甲斐があったぜ!」 「奥六郡の酒もなかなかのものだと私は思うがな」  永衡の提案に貞任がつとめて明るい声をあげ、それに経清が応える。そうして三人はそれぞれの立場が抱える暗い問題をとりあえず考えるのをやめ、三人で久しぶりに楽しいひと時を過ごそうとする。  館の主の永衡を待たず、貞任はさっさと馬に乗り永衡の館の方へ駆け出した。そんな義兄の姿に苦笑しながら経清と永衡も後を追おうと馬に乗る。  永衡はチラリと普請中の熊野神社を振り返った。  ……貞任と姉、二人が奥州の安寧のために願いを諦めても火種はいくつも残っている。陸奥守をはじめ国府の役人たちの安倍を恐れる気持ち、そして開発が進む陸奥の金山からうまれる莫大な利益が人々の心に欲望の炎を灯さぬともかぎらぬ……  永衡が奥州の南の入り口近くに位置する伊具の地に神社を勧請したのは、この地になにか恐ろしいことが起きぬよう神に祈るためであった。願わくば、人の心の欲が悪しき争いを招かぬよう……思いあう者たちが立場に妨げられず添える日が来るように……三人の穏やかな日がこの先も続くように……  揺れる青葉の陰の中で、まだ普請を始めたばかりの社に永衡はそう祈らずにいられなかった。そんな己こそ、十分に欲深いとは思いつつ。
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