1022人が本棚に入れています
本棚に追加
はじまりの“契約”
ランタンの灯りがほのかに照らす薄暗い室内は静まり返り、半時前まで情事に耽っていただろう帝国の皇帝と新しく召し上げられた妃は寝台で眠っていた。
音もなく部屋の扉が僅かに開き、黒装束の小柄の人物が室内へ滑り込む。
警備の者達は睡眠効果のある香を焚き眠らせているとはいえ、油断して失敗することは出来ない。微かに聞こえる寝息で寝台の上にいる人物が眠っていることを確認し、侵入者は足音を消して寝台へ近付いた。
豪華な寝台の前まで来た侵入者は、懐から隠し持っていた短刀を取り出し鞘から引き抜くと、短刀の刀身がランタンの明かりを反射してキラリと光り輝いた。
右手で短刀を握った侵入者は大きく腕を振り上げ、躊躇することなく寝台へ眠る相手へ振り下ろした。
「!?」
バサリッ!
勢い良く捲れ上がった掛け布が視界を覆い、息を飲んだ侵入者の動きが一瞬止まる。
怯んだ侵入者へ向かって掛け布の中から現れた腕が伸び、大きな手の平が顔面を掴むとそのまま寝台へ引き倒した。
「かはっ!?」
手のひらの主は上半身を起こし、寝台に沈んだ黒装束の侵入者の背中に膝を乗せて抑え、細い首を背後から掴んだ。
首を掴んでいるのは片手だけだというのに、首筋に食い込むほどの力の強さと呼吸が出来ない息苦しさで、黒装束の侵入者は呻き声すら上げられない。
手足を動かして逃れようとする侵入者の首を締めて抑える男は、空いている方の手で顔にかかる黒髪を耳にかけてクツクツと喉を鳴らして嗤う。
「ネズミが数匹、宮中へ入り込みこそこそと動き回っていると知り、偽の情報を流してみたら……まさかこんな小僧が引っ掛かるとは」
命を奪おうとしていた相手とは全く違う、若く力強い男の声と彼が放つ覇気で自分を捕えた相手が何者なのか、これから自分はどうなるのかを理解した侵入者の体から血の気が引いていく。
「ごほっ、ごほっごほっ!」
首を絞める指の力が緩み、急に流れ込んできた酸素の刺激で咳き込む。
締め付ける力を緩めただけで首は解放されず、男から向けられる刃物のように鋭い殺気で侵入者の体は竦み上がり震え出す。
「宦官のふりをして後宮へ潜入したのか? 後宮の警備を掻い潜り侵入するとは……お前は何者だ?」
命じることに慣れた高慢な声。
少しでも気に入らない答えを口にすれば、首を掴む男の手の力ならば強く簡単に首の骨をへし折ることが出来ると推測させた。かといって素直に自白などするわけはない。
男に押さえ付けられている侵入者の全身から冷たい汗が吹き出る。
「誰の命を受けて皇帝を狙ったのだ? 全て吐けば拷問は受けさせず、俺がこの場で死なせてやろう」
高慢な男が口にした「死」という言葉と圧力と恐怖によって、侵入者の精神は限界に達っして弾けた。
全身の血が熱く沸騰し、幾重にも施した偽装が剥がれ落ちていく。
バチバチッ!
侵入者の全身から火花が散り、男は手の平を焼かれる痛みと静電気に似た衝撃を受け、掴んでいた首を離した。
「誰がお前なんかに殺されるか!」
昂った感情のまま、侵入者は両手をついて上半身を起こして男を睨む。
後頭部で一纏めにしていた髪が解き、艷ややかな黒鳶色の髪が背中に流れ落ちる。
「うん、お前」
ビリリィッ!
火花に怯むこと無く侵入者の襟首を掴んだ男は、一気に服を真下に引き裂いた。
「きゃあっ」
悲鳴を上げた侵入者が大きく目を見開き、室内に散っていた火花は収まった。
服を破かれ剥き出しになった胸元から覗くのは、サラシを巻いて潰した乳房。
「女か」
破いた襟の布地を床へ放った男は、至極愉しそうに口角を上げた。
「ふんっ、宦官ではなく官女の姿で潜入すれば、好色爺の目に留まったかもしれないのに愚かだな。それに今のは何だ? お前は妖術使いか?」
睨む侵入者の金色に輝く瞳を見下ろし、男はクッと喉を鳴らした。
「お前、その瞳の色は……ふっ、そうか」
幾重にも施していた偽装が解け、瞳が本来の色に戻っていると気付き、侵入者は片手で目元を手で隠す。
「十年ほど前、皇帝は現皇后のご機嫌取りのために辺境の地に住まうある一族を滅ぼした。滅ぼされた一族は感情の昂りで瞳が金色になり、摩訶不思議な力を使っていたと聞く。俺を弾いた力とその瞳、お前は滅んだ慈一族の生き残りとやらか」
胸元を手で隠した侵入者は全身を強張らせ、下唇をきつく噛む。
問いに答えなくとも、仕草から「是」と答えていた。
「後宮へ潜入したのは復讐のため。皇帝が訪れるという偽の情報を信じ込みまんまとこの部屋へ来た。で、合っているか?」
高圧的な男の問いかけに答えず、体を震わせた彼女は敷布を握り締める。
「……殺せ」
眉を寄せて唇を噛み締め、喉の奥から絞り出した声はひどく掠れていた。
「一族の無念を晴らせず暗殺に失敗し、皇帝の前で辱めを受けるくらいならば、私は死を選ぶ」
「ほう」
命乞いもせずに、死を選ぶと言う彼女の迷いの無い瞳と視線を合せ、男は目を細めた。
「女、お前の一族の力を皇帝に強請ったのは傲慢な皇后だ。長寿だという慈一族の中でも若く健康な者達の血肉を喰らい、衰えた若さを得ようとしたが大した効果はないと判断して直ぐに処分した、らしいな」
「……血肉など喰らっても、若返りなど叶うわけは無いのに」
今でも色あせることの無い残酷な記憶の中、武装した兵達によって生け捕りにされたのは若く、見目麗しい者たちだけ。年老いた者や幼い子ども達は惨殺され、村を焼く灼熱の炎に飲み込まれた。
「皇帝と皇后を憎いか?」
「憎いに決まっている!」
勢い良く言い切った侵入者の答えを聞き、男は口角を上げて嘲笑った。
「では、俺に手を貸せ」
再度、手を伸ばした男の指が今にも噛み付かんばかりに睨む彼女の顎を掴み、上向かせる。
「俺に手を貸せば、俺が皇太子と成れば、帝国を傾かせようとしている皇帝と皇后を廃す。その後はお前の望み通り、奴等を殺させてやろう」
視界いっぱいの広がったのは、血のように赤い瞳に肉食獣を彷彿させる獰猛な光を宿した端正な男、冷酷非情、暴君と官僚達から評される帝国第一皇子の顔だった。
最初のコメントを投稿しよう!