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「何をお考えですか!」
内廷にある第一皇子の執務室外まで室内からの大声が聞こえ、警備の兵達のこめかみに青筋が浮かぶ。
今直ぐにでも部屋へ飛び込みたい衝動を抑え、主の名でいつでも動けるように彼らは身構えていた。
「妃殿下に政の真似事をさせるとは!」
筆を動かしていた手を止めた昊天は、単身で執務室へ乗り込み無礼な物言いをしにやって来た訪問者を睨む。
「真似などではない。妃、凜風はご機嫌取りにくるような文官よりも優秀だ。着飾り寵を強請るだけの妃など、俺は不要だ。お前の娘を妃にしなかったことを根に持っているのか?」
不機嫌さを隠そうとはしない昊天に怯むことなく訪問者、皇帝から太師として信頼を得ている白くなった髭を蓄えた初老の男性は眉を吊り上げた。
「このままでは皇太子は藍殿下に決まりますぞ!」
「それを決めるのはお前ではない。皇后でもない。何故、我が妃に政務を手伝わせているのか、我が国の危うさを察することくらい出来るだろう」
「殿下、貴方は……」
怒りで一段と低くなった声には、鋭利な刃物を彷彿させるような鋭さがあった。
「……殿下は」
「申し訳……」
廊下から微かに聞こえた声に反応して、沈黙する太師から扉の方へ視線を向けた昊天は怒気を消す。
変化に驚いた太師は、扉の向こう側に昊天の心を鎮められる者、次なる訪問者が居ることに気が付き、深く息を吐いた。
「ご無礼をお許しください」
頭を下げた太師は扉の方へ歩き、護衛がゆっくりと引き戸を開く。
開いた扉から現れた太師は、目を細めて両手いっぱいに書簡の束を抱える凜風へ頭を下げた。
「失礼します」
ぎこちない笑みを作り、太師へ軽く会釈した凜風はよろめきながら執務室へ足を踏み入れた。
パタン
壁際に控えていた護衛が動き、扉が閉まる。
「で、お前は何をしに此処へ来たのだ?」
両手いっぱいに書簡と文書を抱えた凜風を一瞥し、昊天はあきれ混じりの声で問う。
「政務官が忙しそうにしていたので、仕分けをした書簡を持ってきました」
執務机の脇に置かれた棚の上に抱えていた文書と書簡を置く。
大量の書簡を抱えていたため、赤くなった手のひらを背中に隠して数回開閉させた。
「一人で、か? 警護の者はどうした?」
「入り口で待機しております。書簡に重要な内容があったら大変だと思い、私が持ってきました」
契約で妃と成った凜風へ機密文書が回ってくるとは思えない。とはいえ、国防を任されている昊天の立場上、渡された書類は軍備に関する内容が多かった。
「ふん、今の話は聞こえていたか?」
「申し訳ありません、聞くつもりは無かったのですが……」
望んでもおらず契約を結ばされて妃に据えられただけ、仕事を押しつけられているだけとはいえ、自分の存在が立場を悪くしているとなると、多少居心地が悪く感じる。
「彼奴の声がでかすぎるのだから仕方ない。気にしなくとも、お前は俺の補佐として有能だ。半年間学ばせただけある」
口角を上げた昊天は、ニヤリッという音が聞こえてきそうな笑みを浮かべた。
「え?」
義父母の元で学んだのは、宮廷内の作法や花嫁修業ではなかったのか。よくよく考えれば、仕官試験の問題と似た内容を学ばされた気がする。
まさか、と唖然となって昊天を見た。
「まぁ、俺の妃は有能だということだ」
僅かに目を細めた昊天は視線を凜風の下方へ移し、腕に紐をかけて持っている巾着で止まる。
「ソレは?」
「あ、コレは、一緒に食べようと思って持ってきました」
問われた凜風が巾着から取り出したのは、包み紙に包まれた一口サイズの黒糖饅頭。
女官が休憩用のおやつにと用意してくれた甘味だった。
「中に毒は入っていませんから、安心してください」
「食わせろ」
「は?」
てっきり「いらない」と言われるかと思って彼から言葉に、饅頭を手にしたまま凜風は目を点にする。
言われた言葉の意味が分からず十数秒固まった後、恐る恐る口を開く。
「私が殿下に、ですか?」
「俺は今、手が塞がっている。見ればわかるだろう。だからお前が食わせろ」
「うう~」
偉そうに言う昊天は片手で筆を持ち、片手は紙を押さえている。
筆を置けば手は空くのだが、彼から放たれる圧でそんなことは言えない。
『今まで昊殿下は寝食を忘れて執務に没頭されていました。ですが、妃殿下がいらっしゃってからは睡眠だけはとってくださるようになりました。昊殿下は以前に比べ、やわらかくなられたと思います』
自ら書類を持って執務室を訪ねたのは、滅多に感情を表に出さない泰然が余計なことを教えてくれたから。
饅頭を持って来たのは、心配ではなく空腹で彼に倒れてもらうのは困るから。
(心配とかじゃなくて、復讐を果たす前に皇子に先立たれるのは色々不味いから。皇子妃という立場でいるためには、彼が必要だから、これくらい……)
コクリと唾を飲み込み、執務机へ近付いた凜風は饅頭を一つ摘まむ。
「口を開けてください」
腕を伸ばして摘まんだ饅頭を、開いた昊天の口の中へ押し込んだ。
口へ入れられた饅頭を咀嚼して飲み込み、唇に付いた黒糖餡を舌先で舐め取る。
至近距離で見てしまい、頬をほんのり染めた凜風の目を見て昊天はフッと笑った。
「悪くはないな。もう一つ寄越せ」
顎を動かした昊天は、次の饅頭を口へ運ぶよう指示を出すのだった。
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