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「さあ、どうぞ召し上がれ」
目の前に差し出されたのは、ガラスの器に盛られた細いうどんだった。てっきり温かい蕎麦が出てくると思っていただけに、綾は少しだけ拍子抜けしてしまう。隣の席に座っていた光は、うどんを見るなり残念そうな顔をした。
「水城(みずき)さん、俺は温かい蕎麦を頼んだはずですが、どうして冷たいうどんが出てくるんです?」
光が「俺」という言葉を用いる相手は、親しい人間に限られている。ということは、カウンターを挟んで向かい合っている老紳士とは古い付き合いなのだろう。
「秋田に住んでいる妹から、大量に送られてきたんだよ。それに、あと一週間もすれば年越しだ。その分を取っておかないとならないだろう?」
「ああ、そうだった。大晦日はここは蕎麦屋のようになるんだった」
綾の目の前で、光が思い出したように笑う。このバーが、蕎麦屋のようになるなんて想像できなかった。店内を見渡してみると、シックで趣きのある店内を柔らかな光が照らしている
光とともに店に足を踏み入れたとき、なぜだかほっとした。古き良き時代を彷彿とさせる落ち着いた店内には、十人も座れば満席になるカウンターがあるだけだった。その内側に老紳士・水城がいて、グラスを丁寧に磨いていた。たくさんの酒がきれいに並べられたバックバーを背にして立っている水城を見たとき、光が重なって見えた。綾がそのときのことを思いだしていると、向かいにいたはずの水城がいつの間にか光の向かい側にいた。
「どうしても蕎麦が食べたいんだったら、二階にあるから食べたい分だけ茹でておいで。つゆも冷蔵庫の中に入っているよ」
「じゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます」
そう言って光は席から立ち上がろうとした。
「水城さん。私が上で蕎麦を茹でている間、綾さんに余計なことを話さないでくださいね」
「そんな野暮なことはしないよ。でも、若くてきれいな女性がここに来たのは随分と久しぶりだから、口が滑ってしまわないとも限らない。気をつけるよ」
茶目っ気たっぷりに水城が返事をすると、光は微苦笑を浮かべて席を離れたのだった。
「それでは改めてご挨拶を。ミロワールの店主、水城と申します。光が大学に入学した年からの付き合いだから、もう二十年の付き合いになります」
光が二階へ行ったあと、水城から改めて挨拶されてしまい、綾は緊張してしまう。綾がぎこちない笑みを向けると、水城から優しい笑みを向けられた。
「光が戻ってくるまで、ラップをかけておきましょうか?」
「え? あ、はいっ! お願いしますっ!」
綾が体をこわばらせなから答えると、水城が破顔する。
「綾さん、緊張しないでください。さあ、気持ちを楽にして」
「は、はい……。すみません」
「謝らないでください。ほら、これを飲んで落ち着いて」
そう言われて差し出されたのは、温かいココアだった。湯気とともに立ちが上がる甘い香りが、緊張を解していく。綾はおずおずとココアに口を付けた。ほのかに苦くほんのり甘い。まろやかな甘さが吸い込まれるように喉の奥へ流れていく。温かなココアの熱が体の奥に入ってきて、そこからじんわり温かくなってきた。
「おいしい……」
「ココアにホットミルクを注いだあと、三温糖(さんおんとう)をほんの少し足しました」
「だから柔らかい甘さなんですね」
「和三盆だと甘さがなかなか出ないし、グラニュー糖だと甘さが強く出る。蜂蜜もなにか違うような気がして。それで三温糖を試したところ、苦みがちゃんと残っているうえにほんのり甘かったんです」
そういえば、今は亡き祖母も同じようなことを言っていた。水城の話を聞いているうちに、綾は祖母を思い出していた。忙しい母親の替わりになってくれていた祖母が亡くなったのは、綾が短大を卒業した翌年だ。あれからもう二年が経ったけれど、母親代わりをしていた祖母を失った寂しさは、ずっと埋められないままだった。
しかし、あの店で働くようになってからというもの、寂しさを感じることが少なくなっている。それは多分見るもの聞くものすべてが、驚くことばかりからかもしれない。綾はそう思いながら、ココアをまた一口飲んだ。
「光がこの店に女性を連れてきたのは初めてです。だから私も緊張しているんですよ、実は」
「えっ?」
思いがけないことを耳にして、綾は水城へ目を走らせた。わずかに目を眇めた水城から、見つめられている。急に恥ずかしくなって、綾は頬を赤くさせ顔を俯かせた。
「光は、自分自身の領域に決して他人を入れようとしない。ですが、あなただけは違ったようですね」
「そ、そうでしょうか……」
光にとって特別な存在だということを遠回しに聞かされて、どうにも落ち着かない気分になる。本音を言えば嬉しいけれど、まっすぐ向けられる好意を素直に受け止められる自信がない。この一か月のあいだ、同じ時間を共有してはいるけれど、光についてまだまだ分からないことばかりだ。そんなことを綾が考えていると、背後から扉が開く音がした。
「おかえり、光」
「久しぶりに二階に行ったが、昔とちっとも変わってなかった」
「お前が出て行ってから、あの部屋は誰も使っていないからね。でも、来年早々そこに入るやつがいるんだ」
「へえ。じゃあ、久しぶりに「弟子」をとるってこと?」
「ああ、お前と春馬が最後かと思ったけれど、もう一人鍛えないとならないらしい。最後の弟子を一人前にするまで頑張るつもりだよ」
そう言ったあと、水城はほほ笑んでいた。
水城特製の蕎麦を食べ終えて店を出ると、東の空が白んでいた。
綾は光とともに、薄暗い路地を歩いている。夜明け間近の冷たい空気が頬を刺す。紫色に染まるクリスマスイヴ目前の繁華街は、街路樹に飾られているイルミネーションのせいで華やいでいた。
ドルチェノーチェへ向かう途中の十字路で、並んで歩いていた光がいきなり足をとめた。危うく追い越しそうになってしまい、綾は慌てて足を止め、振り返る。
「光さん?」
綾が白い息を漏らしながら、光に呼びかけた。だが、光は返事もせずに、綾を見つめている。どうして急に立ち止まってしまったのか、その理由が分からず綾は困り果てた。すると白い息を吐きながら、光が綾に問いかける。
「うちに行きませんか?」
「え? うち?」
綾は聞き返した。光が言う「うち」とは、一体どこを差しているのだろうか。
「ええ。ここからだと歩いて五分かかりません。うちで休んで、起きたらクリスマスパーティ用の買い出しに行きませんか?」
唐突に「自宅」に誘われたものだから、綾は戸惑ってしまう。今二人が立っているのは、店まで五分と掛からない十字路の真ん中付近だ。そこが、自宅と店との分岐になっているようだった。
綾は迷った。このまま光とともに自宅へ行くべきか否か。ここで断ってしまったら、恐らく光は一人で自宅に行ってしまうだろう。そう思ったら、急に寂しくなった。
たった一か月であっても、光と一緒にいることが当たり前のようになっていた。それに、口説かれたり迫られたりすることも、いつものことだと思うようになっていた。それなのに、この数日はそのようなことはなかった。それを振り返っていると、体が勝手に動いた。離れたくない気持ちが一気に膨れ上がる。綾は光のすぐ前に立ち、大きな手をぎゅっと握りしめた。恥ずかしくて顔を上げられない。
「お、襲ったりしないでくださいね?」
「一緒に寝るだけです。いつものように」
「あ、あと……
「綾」
光から名を呼ばれたとき、心臓がどくんと一際大きく脈打った。綾は無意識のうちに顔を上げる。すると、光から真剣な表情を向けられていた。
「どうやら、あなたの匂いがないと眠れなくなってしまったようです」
「えっ?」
「この数日、寂しくて眠れませんでした。あなたがいないから」
光の手を握りしめていると、今度は包み込むように握り返された。
「それに、久しぶりに戻ったら、どうにも落ち着かなくて」
「そう、だったんですか……」
「ええ。それでですね、来月が更新月なので引き払おうかと思っています」
思いがけない言葉を聞かされて、綾は目を大きくさせた。嫌な予感がしたけれど、あえて光に問いかける。
「じ、じゃあ、どこに住むんです?」
「二階を改装して住もうと思っています。あなたと一緒に」
「はい?」
「二階はベッドとソファしかないし、それに浴室も狭いでしょう?」
確かに今の二階には、大きなベッドとソファしかない。浴室だってシャワーと小さな風呂があるだけだ。もともとの用途を考えれば、それで十分だったろう。もともとそこは、光の休憩スペースだったと聞いているから。
「そうだ。買い出しのついでにインテリアショップにも行きましょう」
「えっ?」
「だって、これから二人で暮らす場所ですから、あなたと一緒に居心地のよい部屋にしたいんです」
形の良い唇から漏れた白い息が、冷たい空気に溶けていく。薄暗かった路地が徐々に明るくなってきたて、夜の終わりを告げた。
「朝ですね。そろそろカルネドールも開店していると思いますし、そこで焼きたてのデニッシュを買ってから自宅に行きましょう」
優しい笑みを向けられて、綾は小さく頷いたあと、光とともに歩き出した。
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