《第一章》あなたを信じたい

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「お気に召したものがございましたら、そちらのボタンを押してくださいね。すぐに伺います」  そうは言われても、多分使うことはないだろう。綾は胸の内を気取られぬように、愛想笑いを恭子に向ける。すると恭子はすっと立ち上がり、部屋をあとにした。それをソファに座ったまま見送ると、肩から深い息を吐く。 「綾さん」  体から力が抜けたその瞬間、光から呼びかけられて、綾は体をびくっと痙攣させた。ぎこちない動きで隣にいる光を見ると、苦笑いを浮かべている。綾が見つめる中、光が体を起こした。嗅ぎ慣れた香りとともに体が近づいてくる。 「私のことなど考えずに、お好きなものを選んでください」 「いっ、いいえ。結構ですっ!」  条件反射のように言い放つと、苦笑しながら光がため息をつく。ため息をつきたいのはこっちの方だ。綾はそう言いたいのを我慢して、目の前のテーブルに目を向けた。その上に置かれているのは、来年の一月から六月までの間に発売されるランジェリーだ。  春夏のコレクションは、鮮やかな色や淡い色合いのものが多い。それに水彩画のようなプリント柄のものもある。色とりどりのランジェリーの中で特に目立っていたものは、バレンタインデーを意識したコレクションのものだった。  そのランジェリーは、フューシャピンクの布地に蔦模様が白抜きされていた。その隣には、それとおそろいになっている男性用の下着がちゃっかり置かれている。なるべく気にしないようにしていたけれど、鮮やかな色合いのせいでついつい見てしまう。綾はブラとショーツ、そしてボクサーパンツを凝視した。 「似合うと思いますよ」 「えっ?」  条件反射のように振り返ると、光がテーブルに手を伸ばそうとしていた。しなやかな指先が、紺色のレースのブラを差す。 「ネイビーは綾さんの肌に映えると思います」 「でっ、でも寒色系のものは不健康そうに見えるから……」 「青白い肌のかたなら、そう見えてしまうでしょう。でもこのネイビーは深みがあるし、気にならないと思いますよ。あとこちらのミントカラーもかわいらしいですね」  色とりどりのランジェリーの中から、光が選んだものは全て寒色系のものだった。そういえば、店の二階にある部屋のファブリックは水色かミントグリーンだ。もしかしたら、光は寒色系の色が好きなのかもしれない。そんなことが頭に浮かんだが、綾は慌てて打ち消した。 「そ、そういえば、光さんは何を注文されたんですか?」  顧客用の応接室に入った直後、光は恭子に何かをオーダーしていた。そのとき、やりとりしていた声が聞こえてきたが、商品名は分からなかったが結構な数を頼んでいた。先日ルミエラに行ったときも、ワインレッドの小さな袋がたくさん入った紙袋を恭子から渡されている。話題を変えようと綾が尋ねると、光から笑みを向けられた。 「ゲストへのプレゼントですよ。こちらで取り扱っているコレクションに、面白いものがありましてね。女性のゲストにはそれを、男性のゲストにはボクサーパンツを誕生月に贈っています。先日綾さんに取りに行っていただいたのは、また違うものですが」 「違うもの?」 「ええ、あれはクリスマス期間中に来店したゲストにプレゼントするものです。サテンのリボンが入っています」  綾は光を見つめたまま、瞬きを繰り返した。大の大人にただのサテンのリボンを贈ったって、困ってしまうに違いない。心の中でそう思っていると、扉が開いた音がした。綾は顔をはっとさせて、入り口に目を向ける。 「光さん、先ほど承ったお品ですが、御希望の数を確保できました。あとサンプルをお持ちしたので、念のため御確認お願いします」  部屋にやって来たのは、恭子だった。ようやく二人きりの時間が終わる。恭子の姿を見た途端、綾はほっと胸をなで下ろしたのだった。 『あなたを好きになってしまったからですよ』  深紅の夫が店から出て行ったあと、聞かされた話は皆衝撃的なものだった。その中で一番衝撃を受けたのは、倒錯的な嗜好や聞いたこともないサービスのことではなく、光から告げられた言葉だった。 『あなたに私という人間を知ってほしい。理解してほしい。それに綾さん、あなたのことも知りたい』  光は、それまで異性に対して好意は抱いたことはあったけれど、好きという明確な感情を抱いたことがないらしい。ならば、どうして「好き」だと思うのか尋ねてみると、光は何の迷いもなく返事した。 『あなたに触れていると心が安らぐんです。香りを嗅ぐと落ち着く。声を聞いたり姿を見ると嬉しくなる。だから離れたくない、ずっと触れていたい。そう思うようになっていました、いつの間にか』  そのとき、隣に座っていた光の手が手に重ねられた。大きな手から伝う体温が心地良く、ずっと不安を抱き続けてきた心を溶かしていった。綾は、つい自分も好きだと言いそうになったけれど、踏みとどまってしまう。それは、光の全てを受け止めきれる自信がなかったからだった。その思いは日に日に強くなっている。  好きな相手からまっすぐ愛情を向けられて、嬉しくないわけはない。しかし、光が言う「全て」が分からない以上、受け止めきれる自信がない。だから、綾は告白された次の瞬間から、光に対してどう接したらいいか分からなくなってしまった。  光と一緒にいるとき、こんなふうになるのは今に始まったことではない。だが、光から好きだと告げられたあとから、二人でいるときに限って必要以上に緊張するようになっていた。  そんな状態になっていることに気付いているのか、光からも気を遣われているような気がする。現にあの日から、正確に言えばその翌日から、光は二階に来なくなっていた。それだけじゃない、店にいるときだってよそよそしい態度で接してくる。  今まで散々口説いてきたり迫ってきたにもかかわらず、急にそうされたら誰だって不安になる。現に綾は独り寝の心細さと、一人で目覚めることの寂しさを感じるようになっていた。しかし、それを光に訴えることもできなくて、一人悶々としていたのだった。  光が恭子に頼んでいたものは、機能的でないランジェリー、つまりセクシーなデザインのものばかりだった。 「外国では珍しくないんですよ。ベッドタイム用のランジェリーって。男性の目を楽しませるためのものじゃなく、うんとセクシーな自分を楽しむためのものですから、デザインはものすごくエロチックです。でも下品じゃないんですよ」  そう言って恭子が見せてくれたのは、ガーター付きのトライアングルブラだった。三角ブラとガーターベルトが組み合わさったセクシーなデザインだった。それ以外にもレースのチョーカーとショーツがイミテーションのパールで繋がっているものもある。興味を示した綾に見せようとして、恭子が持ってきたのは欲望という名前がついたコレクションだった。全て黒いレースやシフォンのものばかりで、いずれもセクシーなアイテムだった。 「綾さんにどれか一つ見繕っていただけますか?」  綾が動揺しきっていると、隣からとんでもないセリフが聞こえてきた。勢いよく光を見たところ目が合ってしまい、綾は勢いよく正面を向く。その傍らでは、恭子が思案しながら、ランジェリーを選んでいた。 「これなんかどうです。オススメは白です」  そう言って恭子が綾の目の前に差し出したのは、ブラのカップに黒いシフォンが三重に重ねられたかわいらしいものだった。それを見たとき「これなら……」と思ったけれど、その次の瞬間、綾は体を石のように硬直させた。 「これ、一見すると普通のランジェリーなんですが、これをこうするとですね……」  恭子がシフォンを指でつまんだ。そして引き上げると、カップ部分にあるべきものがなかった。つまりそれを身につけて、シフォンをめくると胸があらわになるデザインだったのだ。ぼう然となっている綾をよそに、恭子はなおも説明を続けている。 「これ、ハネムーン用にお求めになる方が結構いましてね。当初は白が人気だろうと多めに入れてみたんですが、意外と黒の方が人気がありまして。綾さんにも、きっと似合いますよ」 「いっ、いいえ! け、結構ですっ!」  恭子から勧められた瞬間、綾は顔を真っ赤にさせて断った。 「さて、用事も済んだことですし、そろそろ店に戻りましょうか」  思わず光を振り返ると、腕時計を見下ろしていた。綾の視線に気付いたようで、視線だけをわずかに上げた。上目遣いに見つめられたとき、全身がカッと熱くなった。 「は、はい……」  綾は一気に熱を帯びたことを気付かれぬように、顔をわずかに俯かせ返事をしたのだった。  綾と光が恭子とともにルミエラから出て行こうとしたときだった。  コツコツとヒールが床を蹴る音がして、綾はそちらに目をやった。ターコイズ色のワンピース姿の女性が、ムートンのコートを腕に掛けて近づいてくる。とてもきれいな人だった。年の頃は光と同じくらいだろう。しかし、光と並んでも全く見劣りしない美女だった。 「光、久しぶり」  綾がその女性の姿を見たと同時に、彼女は凜とした美しい顔に笑みを浮かべて光に声を掛けた。綾が無意識のうちに隣に目をやると、光は驚いた顔を彼女に向けている。これほど驚いた表情の光は見たことがない。綾が不安げな表情で見守る中、二人は挨拶を交わし始めた。 「伽也(かや)? 伽也なのか?」 「ええ、そうよ。五年ぶりね」 「いつ日本に?」 「十二月に入ったばかりの頃よ」  会話を交わす光の表情が、心なしか和らいでいるような気がした。もしかしたら、彼女もまた過去に関わりがあった女性かもしれない。綾はそう思いながら、互いに見つめ合いながら会話を続けている二人を眺めていたのだった。
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