《第一章》あなたを信じたい

7/9
前へ
/11ページ
次へ
 その女性が店にやって来たのは、夜更けを過ぎた頃だった。  来店を告げるベルが鳴り、いつものように受付の部屋でモニターを見たとき、綾は顔をはっとさせた。ルミエラで光と会話を交わしていた女性が、店の入り口に立っている。  白い息を吐きながら寒そうにしていたので、綾はモニターで会員情報をチェックしたあと、すぐさま扉を開いてゲストを招き入れる。 「いらっしゃいませ、深田さま」  師走の冷たい空気とともに入ってきたゲストは、綾に艶美な笑みを向けたあと、着ていたコートを脱ぎだした。綾は背後に回って、コートの肩を持ち上げる。 「ありがとう。お願いね」  コートを脱がせた瞬間、懐かしさを感じさせる柔らかい香りがした。しかし、その香りをいつどこで嗅いだのか思い出せないまま、綾は受付し始める。会員情報をもう一度見てみると、会員になった日付が表示されていなかった。ということは、光が店を構える前からの付き合いがあることを示している。  日付が登録されていないゲストは結構多い。そしてそのようなゲストの女性たちは、光と何らかの繋がりがあるのだろう。一人で来るときはカウンター席から動かず、光と会話し続けている。  バーフロアはいわば「出会いの場所」だ。フリーの男性客が同じくフリーの女性客に声を掛け、意気投合したあと彼らは地階へ降りてゆく。綾は個々で働くようになってから、そういった光景を何度も見ている。しかし、彼女たちはそういった誘いにものらず、光に秋波を送り続けるのだ。その光景もいやと言うほど見てきたし、そのたびにハラハラしていた。 「ねえ、ここって普通のバーよね?」  急に問われて、綾は現実に引き戻された。きれいな顔に不安を滲ませ、ゲストが部屋を見渡している。再びモニターをチェックすると、前回の来店日が登録されていなかった。 「深田さま。もしかして、こちらにいらしたのは初めて、ですか?」 「ええ、そうよ。そういえば、先日ランジェリーショップでお会いしたわよね。そのとき光からこの店の名刺をもらったのよ。久しぶりに彼が作ったカクテルが飲みたくなったから来てみたの」  あのとき、確か五年ぶりと彼女は言っていた。そのとき光は会社勤めをしていたはずだ。綾は不思議に思ったけれど、それを気にしないようにした。 「このお店は一階部分は普通のバーですが、地階はそうではありません。オーナーと親しいようですし、詳しい説明はオーナーから聞いていただけますか?」  綾はそう言った後、受付カウンターから出て、店内に続く扉を開けたのだった。  深紅の夫が来た日から、光との膠着状態はずっと続いていた。  相変わらず光は片付けを終えると自宅へ戻ってしまうし、綾は二階で一人寂しい夜を過ごしていた。  恋愛経験がない綾にとって、この状態はつらいものでしかない。いっそのこと店を辞めて、光から離れようかと考えたこともある。だが、光への思いをなかなか捨てきれず、踏みとどまっていた。そのような状態のときに、光と過去に何らかの関わりがあった女性が突然現れたものだから、綾は気が気でなかった。  深田伽也が訪れる以前から地階にいたゲストを見送ったあと、綾は受付にいた。本来ならば、地階に降りることを許されていないので、光が後片付けをしている間ゲストをもてなさなければならないのに。  時計を見ると、もう日付が変わっていた。綾は店内に続く扉をちらりと見た。その向こう側で、彼らが何を話しているのか気になって仕方がなかった。もしかしたらあのゲストも、他のゲストのように光に秋波を向けているのかもしれない。そう思うと落ち着かない気持ちになった。  それというのも、あの姿を見てしまったからだろう。綾が店内にいたとき、視線を感じそれをたどると、カウンター席に腰かけたゲストの女性から顔を逸らされた。そのようなことが何度もあったものだから、綾はバーフロアに居づらくなってしまい受付の部屋へ逃げてきたのだ。  そのときの事を振り返りながら、綾は思い詰めた表情で扉に目をやった。すると、その扉が急に開いた。扉を開いたのは光だった。ゲストはその後ろに立っている。ほほ笑みを浮かべているけれど、目が潤んでいるように見えた。二人は特に会話もせず、外へ続く扉へ向かっている。  綾は急いで預かっているコートを取り出し、光に手渡した。そのとき一瞬だけ目が合ったけれど、光は全くの無表情だった。いつものような穏やかな笑みはそこになく、急に不安になった。  綾が不安げな目で見つめる中、ゲストは光に背中を向けた。さもそれが当たり前のように。ゲストがコートを着終えたあと、光が扉をあける。ゲストはゆっくりとした足取りで外に出ると、戸口に立っている光に向き合った。 「さよなら、光。今度はいつ会えるか分からないから、今のうちに言っておくわね。元気でね」 「ああ。伽也も元気で」  ほほ笑みながら別れの挨拶をする二人の姿は、映画のワンシーンのようだった。綾はこのとき思った。光の全てを受け止めるということは、過去ごと彼を引き受けることなのかもしれないと。それができるかどうか、試されているような気になってくる。  見つめ合う二人の姿を見ているうちに息苦しくなってきた。二人が過ごした時間の存在を思い知らされているようで。できることなら、一刻も早くこの場から立ち去りたい。でも、できなかった。  二人は暫く見つめ合ったあと、どちらからともなく離れていった。ゲストは帰るべき家に、そして光は自分の店内に向かう。綾は光を目で追った。光は店内に続く扉の前に立ち、ノブに手を伸ばそうとしていた。 「綾さん。店の片付けを終えたら、付き合ってほしいところがあります」 「えっ?」  綾が声を上げると、光がくるりと振り向いた。ふだんと同じ穏やかな笑みを向けられて、綾はほっとする。 「私が大学時代に働いていた店です。ほら、時々出かけていたでしょう? いつもそこで寝酒を飲みながら一息ついていたんです」  ふだん通りの笑顔を向けられ、嬉しい反面綾は戸惑った。いつも光が一人で行っている店に自分が行っていいのかどうか分からず、返事に窮してしまう。すると光が近づいてきた。 「そこのお店の隠れメニューに、温かいおそばがあるんですが、とてもおいしいんですよ。急にそれが食べたくなったんですが、一人で食べたくないんです。だから付き合ってくれませんか?」  おそばと聞いた瞬間、胃の辺りがきゅっとなった。綾は急にいたたまれない気分になる。 「それと、先ほどまでいらしていた深田さまの名前を、会員情報から消しておいてください。もう二度と来ないと思いますので」 「えっ?」  驚いた顔で光を見ると、苦笑していた。 「大急ぎで片付けますので、綾さんは登録情報の更新をお願いします」  そう言った後、光は店内に戻っていった。  店を出る頃には、午前二時になろうとしていた。  いつもなら、光とともに二階で寛いでいる頃だ。  店の入り口と建物の入り口は別になっている。後片付けを終えたら店を出て、その入り口から住居フロアに上がるのだ。ビルは四階建てになっていて、綾が住んでいるところは二階の住居スペースだ。三階と四階はいまは使われていない。  店の後片付けを済ませたあと、綾は光とともに店を出た。ワンピースの上から冬用のコートを着ていたが、外に出た瞬間冬の冷たい空気に触れてぶるりと震えた。 「では、行きましょうか。早く温かいおそばが食べたい」  店の入り口を施錠し終えた光から、声を掛けられた。さりげなく腰に手を添えられる。 「はい」  綾は白い息を吐きながら返事をしたあと、光とともに歩き出した。 「お店、結構離れた場所なんですか?」 「いえ、歩いて十分くらいです。その間、昔話に付き合っていただけますか?」  綾は光を見ようともせずに返事した。 「はい……」 「大学時代、友人に連れられて行ったのが始まりでした。当時一緒にいることが多かった友人二人と、毎晩のようにその店でお酒を飲んでいましたね。その店で夜を明かして、そのまま大学へということも珍しくなかったな」  それからすぐに、光は独り言のような声で話し始めた。人気の無い路地裏を歩きながら、綾は相づちを打つ。 「そうだったんですか」 「ええ。私だけでなく、友人たちもそうでした。そうしているうちに、いつの間にか店の二階に住み着いていまして」 「はい?」  綾は目を大きくさせて、隣にいる光へ目を向けた。 「住み着いてしまったって、どういうことです?」 「言葉通りですよ。二階に住むことにしたんです。その代わり昼は大学、夜は店で働いていました」  光の横顔を見上げながら、綾は考え始めた。田崎家という裕福な家に生まれたのにも関わらず、家を出てバーの二階に住むようになった理由を。しかし、光について知っていることは余りにも少なすぎて、それらしい理由が見つからなかった。 「着きましたよ、ここです」  低い声が聞こえてきて、綾は現実に引き戻された。前を見ると二階建てのビルが建っている。 「ここの地下に店があります。そういえば、ここの一階に小さなランジェリーショップがあったんですが、そこに恭子さんはいたんですよ。彼女との付き合いはそれ以来だから、もう十年以上になりますね」  ビルの一階部分は今はクリニックになっている。そこを懐かしむような目で光は見つめていた。 「先ほど店に来ていた伽也ともここで出会いました。私が大学三年のときに。恭子さんと伽也は友人で、よく連れ立って店に来ていたんです。そして男女の関係になりましたが、大学を卒業し父の会社に入る前に別れました。その後連絡をすることはなかったんですが、五年前思いがけない場所で再会しましてね」 「思いがけない、場所、ですか?」 「ええ。兄の結婚式に来ていたんです、新婦の義理の姉として。私と別れたあと伽也は結婚していたんです。彼女もまさか義妹の夫の親族席に私がいるとは思わなかったでしょうね。そのとき、世の中は自分が思うほど広くないことを思い知りました」  そのときの事を思い出したのか、光が笑みを漏らす。だが、すぐに表情を曇らせた。 「その後、彼女は離婚してフランスに渡りました。そこで知り合った男性と来月結婚するそうです。それで一時帰国していたらしいのですが……」  目線を落として、光は黙り込んだ。それを綾は眺めている。 「最後にもう一度、抱いてほしいと言われました」  その言葉を聞いたとき、頭の中が真っ白になった。緊張とともに胸の奥に鋭い痛みが走る。綾は目線を落として唇を噛みしめた。 「そう言われましたが、断りました。好きな女性がいるからと」  固く握りしめた手に温かいものが触れたと思ったら、すっぽりと包まれた。接した肌から体温とともに温かい何かが伝わってきて、体のこわばりが抜けていく。それまで心にこびりついていた不安が、あっけないほど簡単に消えていく。今まで光は女性から誘われても、決して断らず受け流すだけだった。しかし、きっぱりと断ってくれたことが嬉しかった。 「過去という言葉でひとくくりにしたくはありませんが、以前の私は誠実な男ではなかったし、酷い男だったと思います。女性から誘われたら拒まなかったし、それ以上の関係を求められたらうまく立ち回ってうやむやにしてきましたから。顔を合わせても会話をしなければそれでいい、連絡が来ても取らなければ良い。そうすれば大概の相手は離れていったのですが、今思い返すと随分身勝手な行動だったと思います」  綾は俯いたまま耳を傾けた。 「何がきっかけだったかもう思い出せませんが、彼女と連絡を取らなくなったんです。多分、そう大した理由でないから忘れているのかもしれません。そのときちゃんと別れの言葉を言っていたなら、彼女の中で過去にできたでしょう。でもそれを私はしなかった。恋愛感情が存在しなかったから、何も始まっていない。それなのに終わらせる必要がない、その当時の私はそう思っていたのです。でも、伽也はそうではなかった。自分で言うのもなんですが、無節操な男であってもずっと「過去」にできないままだった。だから「過去」にするために、もう一度抱いてほしいと言ってきたんです」  矛盾している、と綾は思った。そんなことをして過去になんか出来るわけがない。逆に燻っている思いに火を着けるだけだ。恋愛経験がない綾であっても分かることなのに、なぜ当人は気付かないのだろう。綾は手を包んでいた大きな手に指を絡め、ぎゅっと握りしめた。 「十五年前のことを謝った上で断ったら、伽也はそれ以上何も言いませんでした。そして、今度こそちゃんと別れの言葉をお互い言えたんです。だから、彼女はもう店に来ないと言ったんですよ」  握りしめた手が、更に強い力で握り返してきた。 「では、お店に行きましょうか」 「はい」  優しい声で言われたあと、綾は光と手を繋ぎながら、地下へと伸びる階段を降りたのだった。
/11ページ

最初のコメントを投稿しよう!

81人が本棚に入れています
本棚に追加