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「・・・遅かったじゃん」
ベランダでコートを着たまま煙草を吸う母に声をかけると、驚いたようにこちらを振り返る。
「びっくりした・・・ごめん、起こしちゃった?」
「・・・起きてただけ」
「そうなの?早く寝なさいよ。明日も学校でしょ?」
「そっちこそ」
そう言うと母は笑いながら「これ吸ったら寝るー」と言いながら煙を吐く。
俺はもやもやしながら母の背中を睨んでいたら、母が背を向けたまま言う。
「・・・いつもごめんね、寛斗」
俺は不意打ちに驚き、一瞬固まる。
「・・・何が」
「いや、何ていうか、こんな私で」
「・・・ごめんと思ってるなら、早く帰って来れば?」
そう吐き捨てると、母は笑った。
でもどんな顔をしていたかは、分からなかった。
ベランダの柵に肘をつきながら、煙草を吸う。
マンションの5階だが、遠くに見えるビル郡と民家の灯りが漏れ、ささやかな夜景として楽しんでいる。
煙を吐きながら室内を見る。ローテーブルの上に白い箱が置かれている。
「これは私が持っとくよ」
祖母がそう言いながら箱を抱える。
「散々迷惑かけたんだ。あんたら子ども達にこれ以上面倒を押し付けるのは忍びないよ」
「面倒なんかじゃないよ、ね?お兄ちゃん?」
俺は黙っていた。
「寛斗、気を遣わんでいいよ。あんたが一番この子に迷惑かけられ続けたんだから」
胸の辺りがざわっとする。
脳裏には煙草を吸う、母の後ろ姿。
「・・・いいよ、ばあちゃん。俺が持っておくよ」
祖母の言った事は否定出来ない。
お世辞にも『良い母親』とは言えない所は色々あった。おそらく祖母も知らないであろう所も。
でも母はいつも煙草を吸って、笑って、佇んでいた。
その光景が当たり前になっていて、俺は諦めていたんだと思う。
最初の手術で入院する際に言った母の言葉を思い出す。
「3日後には退院だから、その時に迎えに来てね」
「学校終わってからになるけど」
「えー?午前中に退院なんだけどー」
「いや、そう言われても・・・」
「お母さん、病気よくなるよね?」
病室のベッドに座る母が、千穂を宥める。
俺は戸棚にタオルや着替えを仕舞いながら言う。
「じゃあまた来るから。千穂、帰るぞ」
「えー?もう?」
寂しそうな千穂に母が笑いかける。
「千穂、帰る前に何か飲み物買ってきて。お釣りで好きなもの買っていいから」
そう言って千円札を渡す母。千穂は「やったー」と言いながら部屋を出ていった。
「・・・くれぐれも煙草は吸わないように」
「吸わないわよ。信用無いわねー」
「無いよ。そんなの」
「・・・」
「・・・あるわけないだろ」
沈黙が流れる。
開けられた窓から風が入り、白いカーテンがたなびく音が微かに聞こえるだけ。
「・・・まぁ、そうだよね」
溜め息混じりに呟く。俺は目を逸らす。
「ごめんね。こんな私で」
そう言って母は、申し訳無さそうに笑った。
その瞬間、俺は母から『私は変わらない』と断言されたんだと悟った。
「ありさーん」
「そうだなー。蟻さんだなー」
真昼の公園の片隅で屈む結月の隣で、一緒になって蟻を眺めている。
週末たまに千穂達から結月の面倒を頼まれる。不思議と俺は、結月によく懐かれていた。
「ありさん、ありさん」
「ゆづー、あんま遠くに行っちゃだめだぞー」
日曜日の昼間、公園は親子連れが多くて賑やかだ。結月ぐらいの年の子も沢山遊んでいる。
「ゆづ、あっちの砂場に行こうか?皆遊んでるよ?」
1人で遊び続ける姪っ子に、友達を作るきっかけをと、お節介な事を言ってみる。結月はちらっと砂場を見るが、すぐに地面に視線を戻す。
「や」
「や?」
「ゆづ、ありさんみてる」
「あら、そう・・・」
そう言って一心不乱に地面の蟻を追いかけていく結月。俺は苦笑いしながら眺めている。
ふと知っている匂いがして、振り返る。
少し離れた所に鉄棒がある。自分の腰ほどの高さで、小学校低学年くらいの子ども達が逆上がりの練習をしている。
その様子を見ながら、自分もあれぐらいの年齢の時に、休みだった母に逆上がりの練習を見て貰っていた事を思い出していた。
その時も母は、煙草を咥えて笑っていた。
「ばぁば!」
俺は現実に引き戻される。
結月の声がする方へ振り向くと、公園の外の入り口付近で、煙草を吸う作業着姿の男が数人見えた。
「ゆづ!勝手に公園の外に出ちゃ駄目だ!」
俺は急いで結月の元へ駆け寄り、抱き上げる。作業着の男達に謝ると、笑いながら返答してくれた。その時に1人の男の手元を見ると、Peaceのライトボックスを握っていた。
「ばぁば?」
結月はその男を指差しながら、呟く。俺は匂いの正体に気付き、小さく笑った。
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