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あまりの状況に混乱と恥ずかしさと情けなさで頭を抱えたまま項垂れていると、ドアがノックされて開いた。そのとき入ってきた香りに僕は弾かれたようにドアを見る。
この香りは僕を安心させる。
身体がその香りに反応して肌が粟立つ。けれど、心がそれを否定する。
この人は颯介さんじゃない。
僕が愛しているのは颯介さんだけ。
身体が颯介さんを忘れても、心だけは決して忘れない。
颯介さん。
颯介さん、颯介さん・・・。
僕は心の中で何度もその名を呼び、彼への思いを頭に焼き付ける。
「大丈夫かい?」
僕に声をかけたのはどっちだろう?一瞬意識が飛んで、聞いてなかった。
「・・・大丈夫です。あなたは確か、秘書課の冴木さんですよね?この度は僕の不注意でご迷惑をかけてしまって本当に申し訳ありませんでした。とても助かりました。ありがとうございました」
僕はお詫びとお礼を言うと、居住まいを正して頭を下げた。
布団の中にはまだくしゃくしゃのこの人のワイシャツがある。僕はそれをそっと握りしめた。
「早瀬くん、君に大事がなくて良かった。それから話は聞いているよ。君さえ良ければ協力させてくれないか?」
その言葉に頭を上げる。
「そんな事までお願いできません。ただでさえすごく迷惑をかけてしまったのに・・・」
「迷惑とは思ってないよ。それに、当てはあるのかい?」
そんなのあるはずがない。
僕があるともないとも言えずにいると、冴木さんはベッドの端に腰を下ろした。
そういえば椅子はひとつしか無かった。
「なければオレで手を打たないか?それに社長にも出来るだけ協力するように言われている」
なんだかさらっと言ったけど、社長?
そう言えばこの人、社長の秘書だ。
「社長はね、オメガ雇用にとても力を入れているんだけど、まだまだ上層部の頭の古いご老体の反対にあっていてね。オメガの方からもっと要望があればいいのだけど、何故かあまりそういったことが上がってこなくて気を揉んでいるんだよ。そんな中で君は唯一長年辞めずに残っているオメガ社員で、もうずっと社長は君のことを気にかけているんだ」
社長が僕を・・・?
こんな下っ端のアシスタントのことを知ってるだけでも驚きなのに、気にかけてたって・・・。
「こんなことで仕事を辞めて欲しくないし、万が一君に何かあったら大変だ。もし君がオレじゃ嫌だと言うなら仕方がないが・・・」
「嫌じゃありません。冴木さんこそ、こんなこと嫌じゃないんですか?」
僕が冴木さんを嫌なはずがない。そう思って思わず言葉を遮ってしまった。
「オレは嫌じゃないよ。むしろ君の力になりたい」
僕の言葉に気を良くしたのか、冴木さんは少し笑って言った。
僕は、この人に甘えていいのだろうか?
僕はこの人といて、大丈夫なのだろうか・・・?
心の中で何度も繰り返す。
颯介さん・・・。
生きていくために、今仕事を辞める訳にはいかない。
颯介さん、僕を守って。
あなたを忘れないように・・・。
「・・・よろしくお願いします」
僕はそう言ってまた頭を下げた。
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