笑顔のその先

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会社のロッカールームに入ってきたということは同じ会社の人だろう。 「オレは病棟の看護師だから誰かは分からないけど、それの持ち主だって聞いてるよ」 そう言って久保田さんが指さしたのはくしゃくしゃのワイシャツ。 「ここに運んだ時早瀬さんがその人から離れなくて、仕方なくその場でワイシャツを脱いで渡したんだって」 その言葉に僕は青ざめる。いくら発情期で我を忘れてたからって、助けてくれた通りすがりの人にしがみついてワイシャツを強奪しただなんて・・・。しかもそれは未だ僕の手の中にある。 「番やパートナーだったら同伴してもらうんだけど、全くの他人だって言うし、でも離れないし。で、1日着ていたワイシャツなら匂いも染み込んでいるだろうと・・・」 『番やパートナー』 その言葉に、僕の心にチクリと針が刺さる。 僕は一体何をしているのだろう・・・。 颯介さん以外のアルファを求めるのが嫌で強い抑制剤を飲み続けてきたというのに、8年経った今、重い発情期に襲われたとはいえ颯介さんではない香りを抱きしめているなんて・・・。 腕の中に抱えているくしゃくしゃのワイシャツを見る。 発情期の間ずっと抱きしめていたそのワイシャツからはもう、強い香りは感じない。だけど、まだ僅かに香るその残り香が鼻腔をかすめると、なんとも言えない安堵感が生まれる。 僕の身体はこの香りを求めている。 身体は心を裏切り、颯介さんを忘れてしまった。 「早瀬さん?大丈夫ですか?先生呼びますか?」 急に黙ってしまった僕に心配して声をかけてくれた久保田さんの声に、僕はいつもの笑顔を作った。 「大丈夫です。なんだか急に疲れちゃって・・・」 「そうですよね。今回の発情期はかなり重かったみたいだから、ゆっくり休んでください。しばらくしたら先生が診察に来てくれるから、もし何かあったらその時言って下さい」 僕の言葉をそのまま受け取ってくれた久保田さんはそう言うと、静かに部屋を出ていった。 誰もいなくなった病室で僕は発情期の間のことを思い出してみる。だけどその記憶は切れ切れで、殆ど思い出せなかった。でも一つだけ分かったことがある。 僕は颯介さんを一度も思い出さなかった・・・。 僕はひたすらこの腕の中のワイシャツに顔を埋め、香りを嗅ぎ、この香りの持ち主を思って発情期を過ごしていた。 その事実は僕の中の絶望をさらに色濃くした。 けれど、僕の口元は笑みを浮かべる。 笑っていなきゃ・・・。 僕は笑って生きなきゃダメなんだ。 たとえ身体が颯介さんを忘れても、心が絶望で真っ暗になっても、颯介さんが望むから、僕は笑って生きていかなければならない。
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