笑顔のその先

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いつも夜、目を閉じる時に思う。 このまま目が覚めなければいいのに、と。 そしていつも朝、目を開ける前に思う。 時が戻っていればいいのに、と。 時が戻らなくても、別の人間になっていたり、別の世界になっていたり、小説の中の登場人物になっていたり・・・と、最近のまんがのようになっていればいいのに・・・。 でも現実は変わらぬ世界と変わらぬ自分、そして変わらぬ時間だ。 目を開けて、変わらぬ天井に落胆を覚えるようになってからどれくらい経っただろう。 僕はベッドから出て朝の支度を始める。 洗面所で顔を洗い、歯磨きをして鏡の中の自分を見る。 口角を上げ、目を心持ち細める。その笑顔のまま部屋に戻り、窓際のチェストの上の写真に向かう。 「おはよう。颯介さん」 写真の中の彼にその笑顔のまま挨拶をして、僕は身支度を整えると、家を出た。 「いってきます」 写真の中の彼は変わらぬ笑顔のまま僕を送り出してくれる。 今日も僕は笑えてるかな? いつまで笑っていればいい? 僕はもうすぐ、あなたの年になってしまうよ。 『朔夜(さくや)。君は生きて。そしていつまでも、笑っていて』 そう言って微笑んだあの人は、そのまま眠るように息を引き取った。 病気が分かってあっという間だった。 何も出来なかった。 思い出を重ねることも、新しく何かを生み出すことも出来なかった。 せめてもう少し、あと1週間長く生きてくれていれば・・・。 もしかしたら颯介さんの子どもを授かることが出来たかもしれない。 いつも思う。 あと1週間早く病気が分かっていれば。 あと1週間長く生きていてくれれば・・・。 まるで測ったかのように、僕の発情期の合間に彼の病気がわかり、そして亡くなってしまった。 進行性の胃がんで、病気が分かってから僅か3ヶ月でこの世からいなくなってしまった彼は、逆にその時期だったことを喜んだ。 『朔夜に苦労を残さなくて済んで良かった』 だけど僕は、その時間が僕の発情期と被っていたら迷わず彼の子を身篭っただろう。どうして彼の子供を苦労と思う?彼が居た証を残し、育て上げるということのどこが苦労なのか? けれど現実は何も出来ず、何も残されず、彼を失って抜け殻のように空っぽになった自分しかいなかった。 彼が居ないこの世界に生きる意味があるのだろうか? けれど、彼の言葉が僕を縛る。 『君は生きて。そしていつまでも、笑っていて』 この言葉が呪いのように僕にまとわりつき、死ぬことを許さない。 だから僕は、今日も笑顔を顔に貼り付け、生きている。
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