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「なっ……んで」
テーブルに肘を立てて、ひらひらと指を振って笑う彼に、言葉を失う。
「来ちゃった」
ぺろっと舌でも出しそうな軽い笑顔。
驚きで動けずにいる私の反応が余程面白いのか、彼は笑いを堪えているような、むず痒そうな微笑みで立ち上がる。
そして、ジャケットの内ポケットから手の平サイズのカードを取り出し、私に差し出す。
「改めまして。朱月倫太朗です」
一夜限りの関係だからと聞かなかった名前を、あっさり告げられる。
「椿ちゃんの弟みたいなモンです」
差し出された名刺を受け取る。
「朱月……堂?」
「朱月堂の商品を使ってくれてたから気づかれるんじゃないかと思ったけど、俺もまだまだだね」
勧められた商品を試して気に入ったから買っただけで、朱月堂がすごく好きとか愛用しているというわけではない。
顧客データに登録して欲しいと言われたけれど、断ったし。
テレビもあまり見ない。
駅や電車の広告も。
「いえ。私の勉強不足です」
仕事相手でもないのに、仕事相手かのように対応する。
「すみません、名刺を持ち合わせておりませんで」
嘘をついた。
名前はもちろん、所属や連絡先を教える気はない。
「おい、れ――京谷。なんでそんなに他人行儀なんだよ?」
彪が耳打ちする。
私は無言で、彪の脇腹に肘打ちする。
「迷惑がられるのは承知で来たけど、あからさまな態度はやっぱり傷つくなぁ」
彼――倫太朗が苦笑いする。胸が、ジクッと鈍く痛む。
名乗り合ってどうしようというのだろう。
昨夜のことは、なかったことにしたいのが普通ではないのだろうか。
「ごめんね。どうしても、お姉さんに会いたくて」
少し首を傾げてそう言った倫太朗は、昨日の彼だった。
会ってどうするの?
聞いても仕方がない。
私は、明日には東京に帰るのだ。
「とりあえず、座ろうぜ」
彪に言われて、座る。
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