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四月上旬。桜が役目を終えたように桃色から緑色に変わり、過ごしやすい時期になってきた。
家を出ると朝から暖かい陽光に照らされる。とてもいい陽気だ。
しかし、こんないい陽気の日にも日本では毎日約70人が自殺している。ここ数年こそ減ってきているが、それでも年間自殺者数は二万人以上だ。
いつも通りの時間に最寄り駅へ到着してホームで電車を待つ。
「はぁ・・・」
空を見上げ、軽くため息をつく。
今の会社に勤めて三年目。私は就職活動に苦労することもなく、商社の事務員になった。
給与や休日数に不満は無いし、人間関係も特に悪いわけではない。だが私の中に数日前から、えも言われぬ虚無感があった。
到着した電車に乗り込む。いつも座席は滅多に空いていないため、確認することもなく私は反対側の出入口の前に立つ。
徐々に加速していく電車の窓から景色を眺める。しかし二年も同じ電車に乗り続ければ、どちらの窓からでも見えてくるのは見慣れた景色だ。
(私、何のために生きているんだろう・・・)
ふとそんなことを思う。
父は私が物心つく前に離婚して、それっきり会ってもいない。母が女手一つで育ててくれた。しかしその母も半年前に病気で亡くなった。
生きる目的が見当たらないのは家族がいないから?それは正解でもあり、不正解でもある。
独り身だって楽しく生きている人はいるだろうし、家庭があっても幸せとは限らない。
答えが見つからないまま目的の駅に着いて降車する。改札口を出て数分も歩けば会社に着く。
「おはようございます」
事務所の前にいた上司に挨拶をして、いつも通りの日常が始まった。
17時過ぎ。タイムカードを押して定時で退社する。
「お疲れ様でした」
繁忙期は多少残業するが、一年のうち一か月ほどである。
駅のホームで帰りの電車を待つ。定時で終わったときは毎回同じ時刻に到着する電車に乗るので、時刻表を見ることはない。
電車に乗ると、今朝とは反対側の景色を眺める。日もすっかり長くなり、まだ太陽は沈むことなく主張している。
(生きるってなんだろう・・・?)
今朝と同じような気持ちのまま同じような事を考える。
生と死は表裏一体とよく言われる。でも本当にそうだろうか?
死んだら生き返ることは出来ないし、いわゆる輪廻転生というやつも非科学的すぎる。
新たな生命の誕生というのも、生まれる前の赤ちゃんに自我があって好きなタイミング、好きな親に生まれてくるわけではない。
つまり生き死ににおいて、人が自由に選択できるのは「死」だけだ。だからこそ人は自殺というものをする。
電車を降りると私は家でなく、駅近くの高層マンションに向かっていた。
マンションの前に着くが、当然ながらオートロックがかかって入れない。
しばらく住人が来るのを待って、後ろからさりげなくついていって入ることができた。
離れた場所から住人がエレベーターに乗ったのを確認したあと、一人でエレベーターに乗る。ボタンを見ると22階が最上階のようだ。私は迷うことなく22階のボタンを押した。
エレベーターを降りると階段の踊り場に移動して景色を眺める。太陽は沈みかけて、空は綺麗なオレンジ色に染まっていた。
そんな綺麗な景色とは裏腹な思いが私の中に渦巻く。
「もう、終わってもいいよね・・・?」
自問自答するように呟く。多分、数日前からそんな気持ちはあった。
自殺する多くの人は借金や人間関係など精神的、肉体的苦しみから逃れるためだろう。しかし、今の私は恐らくどれにも該当しない。
「死にたい」というより、「生きていたくない」というのが一番近い表現だろうか?
苦しみを抱えて自殺していった人達からしてみれば贅沢なものだろう。だが、死は誰にでも与えられる選択のひとつだ。
私は深呼吸して遠くの景色を見つめる。そして子供の頃を思い出す。
子供の頃の思い出は美化されるというが、まさにその通りだ。
思い浮かぶのは楽しい思い出ばかり。今思えばなんでこんなことが楽しかったのか、というものがたくさんある。
気付いたら目頭が熱くなり、私の目じりには涙が溜まっていた。でも・・・もういいや。
私は塀の部分に登り、足を空に投げ出す形で座る。
22階なら50メートルくらいはあるだろう。ここから落ちればほぼ間違いなく死ぬ。
目を閉じる。
風を感じる。
少し冷たい。
太陽を感じる。
少し暖かい。
目を開ける。
下を見る。
すると、凄まじい悪寒が体中を駆け巡った。
私は思わず仰け反り、バク転のように一回転して踊り場の塀にお尻と背中を強打した。
「痛ったぁ・・・」
強烈な痛みのなか、下を見た瞬間のことを思い出す。そう、あれは今まで感じたことのない恐怖。死への恐怖だ。
そして私はそれを受け入れようとはしなかった。つまり「死にたくない」と強く思った。
私は噓つきだ。生きていたくない?その真逆、「生きたがり」じゃないか。
自分に呆れて、痛みをこらえながら立ち上がる。もし住人に見られたら面倒なことになりそうだからだ。
マンションを出てゆっくりと自宅へ向かう途中、考える。
自殺した人は恐怖を感じたまま死んだのだろうか?それとも苦しみが恐怖を凌駕して何も感じなかったのだろうか?恐怖に負けた自分には知る由もない。
しかし、どちらにしても自殺者が年間二万人以上いるというのに、改めて恐ろしさと悲しさを感じた。
翌朝。私はいつも通りの時間に駅のホームで電車を待っている。
あのあと、家で考えてみた。生きるという事。死ぬという事。
私は生きる目的みたいなことに囚われすぎていたのかもしれない。
何か目的の為に生きる。それもひとつの生き方だし、なんとなく生きるのもひとつの生き方だろう。
自殺というものは、人間以外の生物はしないとされている。普通に考えれば当然だ。自殺という行為は、生物が生物である所以を否定しているみたいなのもなのだから。
そして生物には必ず死が訪れる。それはどんな「生きたがり」でも例外はない。寿命こそ大きく違いはあるが、逃れようのないもの。
じゃあ別に生きていてもいいんじゃない?そんな考えになった。
生きる目的?そんなもの何もない。どうせ未来には強制的に「死」というゴールが待っている。
強いて言えば、自殺ではない「死」を迎えることこそが生きる目的なのかもしれない。
到着した電車に乗って、窓から見飽きた景色を眺める。
まだ昨日ぶつけた背中とお尻が痛い。
でも、その痛みこそが私が生きているという証。
「おはようございます」
今日も退屈な日常が始まった。
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