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01_小林の悩み(1)
二〇一八年 一二月十二日(水)
何もないはずなのに、苦しい。
「……何かしたいこととか無いの?」
机の上には、私が提出した目標設定のシートがある。それに目を落としたまま、熊谷課長はもう一度私にそう問いかけた。来年目標については伝えるべきことは一通り話したし、熊谷さんも頷いて話を聞いていた。そのため、さっき説明したことを求めていないのはすぐに分かる。しかし、その問いに対する答えを持っていない私にはどうしようもなく、同じ説明を繰り返す。
「今年はリーダーや先輩に指示されたタスクをこなすのに精一杯でしたが、問い合わせ対応や、システムの仕様確認など、基本的な業務については一人でこなせるようになってきました。なので来年からは自分のタスクをこなしつつ、前から課題になっていた庶務作業の自動化を――」
「いや、それじゃなくて」
説明を遮り、熊谷さんは、ふー、と息を吐きながら背中をぐっと伸ばす。一時間近く閉め切りになっていた会議室の中は、生暖かく淀んだ空気で満たされている。その空気が熊谷さんの集中力をじりじりと奪って、限界に達したようだ。体勢も話し方も、少しフランクになる。
「ここ一、二年のことじゃなく、五年、十年ぐらい先には何をしたいのかって話。ほら、最後の『将来の展望』って項目。空欄のままでしょ」
熊谷さんはシートを机の端に寄せ、背伸びをした時に崩れた体勢を直し、こちらに向き直る。
「シートにこういう項目があるからっていうのもあるけど、単にどんな事をやりたいのか、知りたいんだよね。小林君、真面目なんだけど、そういう将来の展望みたいなもの、もってるのかなっと思って。もう会社に入って二年目だし、うちのチームにも慣れてきただろうしさ。で、どうなの?」
何かを期待したような面持ちで熊谷さんはこちらを見る。さっきまでシートの文字面を追いながら、その内容の話をしていただけだったが、途端に目が生き生きとし始めた。
どう返答したらよいか思考を巡らすが、期待に応えられるような回答が出てこない。申し訳なく思いながら、そのまま口を開く。
「いまはまだ、目の前の仕事で精いっぱいで、五年、十年先のこととか、将来の展望とかはあまり考えられていないです。すみません……」
「そうか……」
熊谷さんは少し残念そうな顔をしながら言う。それを見て、さらに申し訳なくなると同時に、自分が情けなくなった。
「じゃ、またあとで」
面談が終わり、会議室を出て自席に戻る熊谷さんの姿を見送る。姿が見えなくなったことを確認すると、伸びた背筋がゆっくりと緩み、やっと終わった、と、胸をなでおろした。大きく深呼吸をして、肺を満たしていた会議室の空気を、外の空気と入れ替える。
あの後、熊谷さんから目標設定全体を通して指摘を受け、結局、修正して再面談ということになった。特に達成基準のところは、明確にしてくれないと評価がしづらいと、ほぼすべての目標の基準で指摘を受けた。どういう風に基準を作成したらいいかまだあまり分かっていない私は、メモした指摘を見て、また仕事の間に直さなければいけないと思い、少し憂鬱になる。
「……戻るか」
小さな声でそうつぶやき、私は自席の方へと歩き出した。
私が勤めている会社は、東京にあるシステム会社。この会社では年度末に、次年度の業務における目標設定が行われる。目標設定用のシートに、社員が業務上で解決したい課題や目標、その実行計画を記載する。記入した内容が上司に承認されると、次年度の人事考課の参考とされ、その達成具合によって評価が変わる。
自席に戻り、メモ代わりに使っていた自分のシートを見て、面談で指摘された点を再度確認する。実行計画への具体的な指摘がいくつかある中、一番下の欄の隣に「『将来の展望』について、もっと具体的にすること」というざっくりとしたコメントが、殴り書きで残されていた。
シートの最後にある、『将来の展望』の欄。私は何を書けばいいかわからず、空欄のまま提出した。今までずっと考えてきて、答えが出せていないこと。
業務システムの保守・運用部隊に配属されて二年目、私はこの、『将来の展望』という、人事考課にはほぼ関係ない項目に、頭を悩ませていた。
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