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執事は衝動を我慢します
薄暗く狭いかすかに揺れるその個室の中、硬く軋むベッドの上でふたつの影が動いた。
「はぁ……っ」
エメラルドグリーンの瞳を苦しそうに歪ませ涙を浮かべるその影。乱れた呼吸の音が静かな室内に響いた。
「……セバスチャンっ、私、もうっ」
「アイリ様、もう少しだけです。もう少しだけ我慢なさればすぐに楽になります」
アイリ様は私の服を震える手でつかみ、駄々をこねるように首を左右に振ります。
「もっ、無理だよぉ……っ」
アイリ様の呼吸はさらに激しく乱れ、私にしがみついてきました。
「セバスチャ……っ」
「アイリ様……!」
私が覚悟を決め、アイリ様に手を差し伸べたその瞬間。
「おえぇぇぇぇ――――っ」
アイリ様は真っ青な顔色で私の手の中に嘔吐してしまいました。
「……はぁっはぁっ、気持ち悪いぃぃ~~っ」
「バケツも酔い止め薬も間に合いませんでしたね……」
なんとか受け止めたものの下手に動くと大惨事になりそうです。すると扉が控えめにノックされ、よく見知った人物が入ってきました。
「――――バケツをっ。あぁ、間に合いませんでしたのね」
少し錆びたバケツを抱えて入ってきたルチア様は私の惨状を見て申し訳無さそうに肩をおとされます。
「アイリちゃん、船酔いなんてかわいそうですわ……」
「申し訳ありません、ルチア様。私は手を洗ってきますのでアイリ様をみていてくださいますか?」
「もちろんですわ」
私はこの場をルチア様に任せ、外にある手洗い場に向かいました。ベッドから立ち上がると床がグラリと揺れ、倒れそうになりますがなんとか踏みとどまります。
「うっ!また吐きそう……」
アイリ様の顔色がさらに悪くなり、ルチア様が急いでバケツを渡されていました。
ここは船の中。もちろん豪華客船などではなく庶民の客船で、さらに付け加えれば船の後尾にある下働き人用の部屋です。
この船に乗り込んでひと晩立ちましたがアイリ様が酷い船酔いをなされてしまいあのような状況になっておりました。
「おい、あのガキはまだ船酔いしてるのか」
手を洗っていると後ろから声をかけられます。
「あぁ、親方さん。すみません、弟がこんなに船に弱いとは思ってなくて……」
振り向くと強面の厳つい男がため息をついていました。私たちをこの船に乗せてくれた方です。
「仕事するって言うから乗せてやったのに使い物にならねぇな。いっそそっちの趣味の成金にでも売ったらどうだ?
さっき上の客に変態じじいを見かけたぜ」
指を下品に動かし、ゲラゲラと笑ってきます。
「大事な弟なんでそんなことしませんよ。その分俺が働きますんで勘弁してください」
私が申し訳無さそうにそう言うと、今度は私の顔をじっとりと見てからニヤニヤとしだしました。
「そういやあんちゃんも綺麗な顔してんな?
成金のばばあの相手でもすりゃいい金稼げそうだ。それか、もうひとりの弟とやらもあの泣き黒子がなかなか――――」
下劣な笑みを浮かべる男は一体何を想像したのやら、自分の顎を撫でると舌舐りしだしました。
「どっちかひと晩買ってやろうか?」
「冗談はやめてくださいよ。休憩時間が終わったらすぐ仕事しますんで、失礼します」
この男を、殴って千切って丸めて潰して海に捨てたい衝動を我慢したことを是非とも誉めて頂きたいくらいです。
部屋に戻るとアイリ様はベッドで寝息をたてられていました。多少は顔色もマシになったように思われます。
「酔い止め薬がやっと効いてきたみたいですわ」
アイリ様の額に濡らした布を当てながらルチア様がほっと息をつかれました。その姿はウィッグで髪を短くし、庶民の子供……少年の服を着て男装されています。
もちろんアイリ様も金色の短い髪のウイッグを被り、おふたりともどちらかというとあまり裕福ではない装いをしておりました。そして私は髪などはそのままですがこのおふたりの腹違いの兄という設定です。
なぜこんなことになったのか。原因を思い出すだけでため息が出ました。
そう、すべてはあの犬と蜥蜴王子どものせいなのです。
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