20人が本棚に入れています
本棚に追加
表と裏
カレーの匂いが残る部屋。どんな具材の競演も、カレーを入れればなんとか食べられるようになる。ネットで拾った、真しやかな闇鍋情報は正しかった。
空の鍋、使用済みの取り皿、夥しいビール缶……テーブルの周りには、賑やかな笑いが、まだ燻っているようだ。ソファーに横たわる陽斗を横目に、取り皿を重ね、空き缶をゴミ袋に入れていく。
――ピンポーン
誰だ? 忘れ物は確認した筈だが。ゴミ袋を片手に、インターホンのディスプレイを覗いた。
「どうしたんだよ」
10分ほど前に見送ったばかりの蓮を、戸惑いながらも再び招き入れる。
「悪い。忘れ物……」
赤い頰のまま、歯切れの悪い言い訳を呟いて、そそくさと居間に入っていく。
背中を追うと、彼は友人の寝姿を眺めていた。探し物をするのなら、と淡い間接照明から天井の照明に切り替えようとしたら、軽く視線で制された。
「陽斗は、まだ眠っているのか」
「ああ。久しぶりで疲れたみたいだな」
「お前も、疲れた顔してる」
「ちょっとだけだ。楽しかったよ」
胸の内を読まれたくなくて、重ねておいた取り皿をキッチンに運ぶ。
「水、もらっていいか?」
「構わないけど」
『早く探さないのかよ?』――その質問は飲み込んで、カウンターを示した。蓮は大人しくスツールに腰掛ける。
「お前ら、渡米ってさ……」
「ああ。これから荷造りして――」
冷たい水を注いで、カウンター越しにグラスを渡す。受け取った蓮は、酔いのない眼差しを向けてきた。
「嘘だろ」
勘がいいんだ。全く。
あの頃――エースの陽斗と控えの俺。2人の球を受けてきた蓮は、俺達の好不調を本人より早く見抜いた。肩や肘に現れた微かな張りも見逃さず、投げたくて吐いた嘘も、彼には通用しなかった。
「お前、何考えてるんだ? この鍋パーティー、仕掛けたのはお前だろ」
キッチンの隅に立て掛けてあった折りたたみ式のスツールを開き、腰を下ろす。立ち話は、膝に堪える。
「陽斗が、皆に会いたがっていたんだ」
「なんで、このタイミングで?」
報道に入り混じる真実とゴシップ。それから、表に出ない本当のこと。コイツは、何をどこまで知っているのだろう。
「渡米は本当だ。お前を信用して話すけど、肘の手術を受けに行く」
「2年前の事故……相当悪いのか」
「お前のことだから、察していると思うけど――退団は事実上の解雇だ。球団は、FA権を取得するまで待ってくれた」
新人王、奪三振王に最高防御率、最多勝利投手、ベストナイン賞……投手が獲り得る賞を軒並み総ナメにして、あとは沢村賞だけ。今年こそ確実だと囁かれた2年前の秋、陽斗は交通事故を起こした。
首都高を飛ばして、中央分離帯に接触、コントロールを失ったまま、トンネルの壁に激突。右足の骨折と右肘の複雑骨折に、頭部の打撲。一命を取り留めたものの、選手生命の終わりが見えた瞬間だった。
事故の翌年は、手術明けでリハビリ生活。2軍での登板すらなかった。その翌年は、減額制限を越えた年俸の250%ダウンを提示されたが、解雇せずに残してくれた。陽斗のキャリアを考慮しても、異例の待遇だった。
「水くさいだろ。皆、陽斗の挑戦を心から応援しているのに」
地元の星――仲間達を含めた日本中が、ずっと陽斗を崇拝してきた。
『陽斗なら、出来る筈』
『陽斗だから、出来て当然だろう』
『出来なきゃ、陽斗じゃないよな』
等身大のアイツを遥かに凌ぐ期待を重ね合わせて、勝手に理想化している。結果を残せば残す程、虚像と現実との乖離に苦しんできた。そんな姿を見てきたのは俺だけだ。
「手術が成功すれば、嘘も真になる。そのつもりで、腹括ったんだ」
招待状の文言は、俺に任されていた。仲間の夢を壊さず、陽斗のプライドに配慮した、精一杯の作り話を用意したつもりだ。
「それも――嘘だよな、裕志」
蓮は声を落とした。瞳を上げると、待ち構えていた眼差しに捕まる。グラスが白く曇っていた。
最初のコメントを投稿しよう!