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陽斗のいる世界
「不安になると、唇を引き結ぶクセ。お前ってピッチャーなのに、分かりやすいんだよ」
知ってるよ。感情がダダ漏れだって、監督にはよく叱られた。『それさえなけりゃ、お前がエースになってもおかしくなかった』ってさ……温泉旅行の帰りのバスで、ポロリと漏らしたんだ。その言葉が、決勝のグラウンドに立てずに負けた俺の心の傷を深く深く抉ったことも知らないで、な。
「ああ、不安だ。堪らなく、不安だ。だからって、誰が助けてくれるってんだ?」
カウンター越しの誠実な眼差しを睨めつける。
「俺達には、後がない。アイツのキャリアも、その先の長い人生も。駆け上がった分、谷底は深い。いつでも足元で奈落が口を開けている。そんな世界を分かるってのか」
「分からないよ。でも、お前らが苦しんでいるのは、分かる」
優しさという甘い媚薬の香りが鼻を擽る。止めてくれ、反吐が出る。
「同情なんか迷惑なんだよ」
吐き捨てて、なおも睨む。虚勢ではない、これは威嚇だ。
「なぁ、裕志。陽斗は何に襲われているんだ?」
ガタタッ
しまった。動揺がはみ出して、スツールが音を立てた。
「アイツ、何と闘っているんだ?」
突然崩れた砦の隙間から、ドッドッと、嫌な緊張が溢れ出す。見えないのをいいことに、パンツの弛みをギュッと掴んだ。
「蓮……お前、何を聞いた」
「質問してるのは、こっ」
「何を聞いた!」
反射的に荒らげると、彼は深く溜め息を吐いた。
「『日が沈むと、ヤツらが襲ってくる』。それから、俺がどんな武器を持ってきたのか、訊かれた」
上った血が、スウッと引いていく。白くなった指先が冷たい。
「いつ……」
「柊太がトイレに吐きに行った時」
迂闊だった。目を離さないよう、ずっと気を付けていたのに。ソファーに倒れ込んで眠そうにしていたから油断した。
「アイツ、他には……」
「『気を付けて帰ってくれ』と、皆に繰り返していた」
俯いた額から、ボタリと脂汗が落ちた。シワの寄ったパンツの腿が黒く滲む。
「皆も……聞いたのか……」
「いや。最初の『襲われる』ってのと、武器の質問は、俺しか聞いていない。早口でボソボソ……独り言みたいに上の空でさ」
蓮だけしか聞かなかったのは、不幸中の幸いか。いや……よりによって、というべきか。
「アイツ……陽斗、不眠症なんだよ。最初は苛立ってたんだ。その内、暗がりを恐れるようになった」
そして陽斗は、彼にしか見えない化け物が蠢く世界を脳内に作り出した。今や彼に取っての日没は、非日常の開始を意味する。
「おい、もしかしてあれって」
蓮がソファーを振り返る。俺は頷いた。
「強力な眠剤。アルコール入れたから、当分起きねぇだろ」
「不眠症って、いつから」
「元々、大きな試合の後は、興奮して眠れなくなるって言ってたんだ。けど、慢性化したのは昨年の秋かな」
ペナントが終わる秋。最強右腕を欠いたチームは成績も低迷し、8年振りにポストシーズン進出を逃した。契約更改が近づくにつれ、精神的に不安定になっていくのを、俺はどうすることも出来なかった。
「お前は、大丈夫なのか」
「は……大丈夫。同情はいらねぇよ」
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