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分水嶺
甲子園を経験した高3の秋、陽斗も俺もプロ志望届を高野連に提出した。注目の本格派右腕の陽斗は、ドラフト会議で1位指名を受けて、順当にプロの世界に進んでいった。
一方の俺は、甲子園直後は話題にこそ上ったが、ドラフトで指名を受けることはなく、失意のまま都内の国立大学に進学した。お世辞にも強いとは言えない野球部は、リーグ戦でも滅多に勝てず、さしたる成績も残せなかった。それでも、社会人野球チームを持つ地元の中堅企業から声が掛かり、野球を続けることが出来た。
ピンチになると感情が漏れる――この短所は、大学時代にかなり改善された。けれども、職場で出会った特定の女性の前では全く隠すことが出来ず、23の春に籍を入れた。
『残り30試合で、防御率2.14、奪三振数が128だって? 凄いな、今年こそは沢村賞いけるかもな!』
ホームゲーム3連戦の初戦を、陽斗の12個目の勝利で飾った夜。俺は関係者専用の駐車場に押しかけて、陽斗の車に同乗した。陽斗と俺が、にな共に甲子園を沸かせたことを知っている守衛のオヤジさんは、顔パスで通してくれるのだ。
『129だ』
『え?』
『奪三振数。間違えんなよ』
ハンドルを握る彼からは、ほんのりシトラス系の香りが漂う。試合後、シャワーを浴びて、自宅代わりのホテルに戻るだけなのに、身だしなみには余念がない。
ああ、確かに――この匂いだ。
『陽斗。花梨とは、もう会わないでくれ』
信号が変わって、ゆっくりとタイヤが滑り出す。右折して、首都高に乗る。
『別に……俺から会いたいなんて言ったことねぇぞ』
入籍の報告を兼ねて、3人で食事をした。親友に新妻を紹介するくらい、ごく普通のことだと思っていた。
あれから1年半後――俺は今、猛烈に後悔している。
『密会の誘いが来ても、断ってくれ』
試合で遅くなった週末。仲間と打ち上げしてから帰宅すると、妻の髪には、嗅ぎ慣れない移り香が纏わり付いていた。シャンプーを変えたのかと思ったが、香りが違う。そんなことが何度かあって――その夜は、決まって肌に触れることを拒まれた。
おかしいと気づき始めた頃。母校の野球部から、陽斗に講演を頼みたいと相談された。その伝言を持って陽斗のマンションを尋ねると、開いた玄関先で同じ香りに包まれた。某男性化粧品メーカーが、ファッション雑誌との企画で共同開発した、陽斗をイメージしたオリジナル香水だった。
『この俺に、指図するつもりか、裕志』
後から考えれば、登板日の訪問は避けるべきだった。アドレナリン過多で、軽い興奮状態にあった筈なのだ。
『頼む! お前は、地位も名誉も金も、全て手に入れているじゃないか。モテるんだろ、なんとかってモデルさんと噂になっていたよな? なにも、俺の妻なんかに手を出す必要は』
『誘惑してきたのは、彼女だぞ?』
車の流れを縫いながら、彼は高笑いした。トンネルに入り、流れる灯光が彼の顔に影を落としては、意地悪く歪めてみせる。
『お前は……どう思っているんだ。その、彼女を……愛して』
『おいおい。止めろよ』
2人が純粋に、心から愛し合っているのであれば――涙を飲む覚悟が丸きりなかった訳じゃない。けれど。
『あと2年したら、海外FA権が取れるだろ? うちの球団はポスティングに消極的だからな、獲れるだけの賞を手土産にして、大型契約でメジャーに殴り込んでやるんだ』
薄闇の中でニタリと嫌らしく笑んだ横顔は、俺の知っている陽斗じゃなかった。尊大で、傲慢で、強欲で――。
『花梨とは、それまでの付き合いだ。俺が渡米したら、まぁ……身の丈に気づいて、お前で我慢出来るんじゃねぇの?』
悪びれない態度に、カッとなった。
『なにもかも――俺は、お前に負けている。そんなことは、分かってんだよ!』
俺の中に闇が広がる。陽斗と出会ってから、事あるごとに膨れ上がって、溢れそうになっていた。ヒリヒリと身を焼きながら、胸の奥を穿ち、迫り上がる重い闇。
『おいっ!? 馬鹿っ、危ねぇっ!』
身を投げ出して、ハンドルを右に切る。フラリと車体が本線から外れて、タイヤが踊る。
『俺に残された、たった1つの幸せを、汚しやがって!!』
ずっと抑えていたのに。ベトベトとドス黒く、一縷の光さえも逃さない。俺の深淵から溢れた暗闇に、感情も瞳も、なにもかもが飲み込まれた。
『止めろ、裕志っ! わああぁ……!!』
陽斗の悲鳴は、断末魔のブレーキ音と入り混じり、パックリと口を開けた奈落の底へ消えていった。
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