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誰もいない街
Y駅で降車したのは僕と幽霊の二人だけだった。駅前は閑散としていて、自分以外の人影はほとんど見当たらない。錆びにまみれた薄暗いアーケードが、あの世の入り口の様にぽっかりと口を開けている。
「あのアーケードの手前にあるのがバス乗り場だ」
一体どこから見ているのか、幽霊はバッグの中から僕に向かって指示を出してきた。バスは1時間に1本と言っていたが、バス停横の運行表を確認してみると、2時間に1本になっていた。手書きの横線が雑に引かれているところからして、本数が減ったのは最近の事なのかもしれない。
「次のバスまで1時間半あるんですけど……」
「待つしかないわな」
「この辺何かないんですかね。何かゆっくりできるところとか」
「ないねぇ。俺が学生の時は喫茶店やらボーリング場やら色々あったんだけど、今はもうまるっきりシャッター街でな」
「死に掛けも同然じゃないですか」
「これでも前は若者たちが夢を求めてやってくる憧れの町だったんだよ。まあ、今日は日差しもあったかそうだし、ちょっとその辺歩こうや」
「あったかそう」というのは、やはり幽霊には日差しの温かさはわからないということなのだろう。
僕はバッグからペットボトルを取り出し、左手に持った状態でアーケードの方へと歩き出した。どの店もシャッターが下ろされ、黒いスプレーで描かれた下手くそな落書きが誰にも消されることなく放置されている。それがまた余計に虚しさを煽る。
「そういやお前、名前なんて言うんだ?」
手の中から幽霊が言った。幽霊に名前を教えるなんて絶対にやってはいけないことだろうが、僕は何のためらいもなく答えてしまった。
「陸だけど――あっ」
まずいと気付いた時にはもう遅かった。しかし幽霊は「チッ」と舌打ちし、「嫌味な名前だな」と言っただけだった。死んでも舌打ちはできるらしい。
「こっちは水から出れねぇんだぞ」
「知りませんよ。自業自得でしょう」
僕が言うと、幽霊はそれきり何も言わなくなってしまった。まずいことを言ってしまったような気もしたが、それでも舌打ちされる筋合いはないことは確かだ。
アーケードを抜け、そのまま真っすぐ通りを歩き続けると、潮の匂いに混じって煙のような嫌な臭いがし始めた。歩道橋の階段を登り、道路の真上まで来ると、遠くに黒い煙を吐き出す工業地帯が見えた。そういえば、家を出る前、ニュースで工場で火災が起きたと言っていたが、その煙だろうか。
僕は歩道橋の真ん中で足を止め、話を続けた。
「ほら、人に訊いたからにはそっちも答えないと不公平ですよ」
「俺の名前は、思い出せないんだ。たぶん、死んだ衝撃でどっかに吹っ飛んだんだと思う」
「んな馬鹿な……」
「いやまじで。一文字たりとも思い出せん。でもあの世に行くには名前が必要って言うだろ? だから何としてでも死体を見つけてもらわなきゃならないんだ」
「はぁ」
僕は特に言い返す言葉も見つけられず、ペットボトルを歩道橋の柵の上に置くと、ひっきりなしに青空へ溶け続けるどす黒い煙を眺めていた。
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