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医家として代々を継ぐ名家と、俄かに成り上がった資産家とが隣り合っていた。
医家の家には優秀な男の子がいて、イェルクといった。女性的な顔立ちで、青みがかった美しい銀髪を伸ばしていた。一粒種で、やがては家を継ぐ責務を常に意識した、真面目な少年だった。
資産家の家は子沢山で、長女にアルラがいた。アルラはチャンバラだって木登りだってするやんちゃぶりで、その男勝りには親も手を焼くほどだったが、真に弟妹思いの優しい女の子だ。イェルクはこの元気のいい同い年の少女につられて遊び惚けることで、大人びた面差しに隠れがちな子供らしさを全開にすることができた。
「―遊ぼう、イェルク」
眩しい日差しを背負って、イェルクに手を差し伸べるアルラの曇りない笑顔。アルラの隣にいるとイェルクは、呼吸が楽で肩が軽い。
家もすぐ隣で、ずっとこんな日が続くのだと思っていた。時流に呑まれ、アルラの家が傾くその日まで。
大きな家の維持が真っ先に放り出され、アルラの家族は引っ越しを繰り返した。そのたびに家屋は小さくなり、イェルクの家から距離が離れていった。もうかつての勢いは見る影もないという。今は、どこでどんな家に住んでいるかも知らない。
十七歳になった今でも。朝起きるとイェルクは長い銀髪を櫛で梳き、椿の香油を適度にすり込む。イェルクとアルラは幼い時分、アルラの広い部屋で時どき遊んだ。イェルクの両親は、イェルクが成り上がりの家のアルラと遊ぶのをあまり快く思っていなかった。女の子としては活発過ぎるアルラの性質も込みで。だから時どきだった。
その貴重な機会にアルラは、イェルクの青い銀髪をまじまじ見つめて、「さわっていい?」と聞いたものだ。
「うちの男はみんなこの青みがかった銀髪で、家のシンボルなんだ。よく手入れするようにって怒られるよ、女の人でもないのに」
いいな、とアルラが呟く。
「アルラも伸ばしたらいいのに」
イェルクがそう言えば、アルラはうねりの強い自らの黒髪に触れて、「……うん」と小さく頷いた。イェルクを引っ張りまわすほど快活に遊ぶアルラも、女の子らしいことがしたいのかな、と思えばイェルクも微笑ましかった。
弟妹の頭を撫でるのに慣れたアルラが、やさしくイェルクの銀髪を梳く手つき。いいな、と囁く素朴な声。そんなことを今でも、折に触れ思い出す。
だが、学校だけは二人とも同じところへ通い続けた。将来を嘱望されるイェルクと同じ学校へ通わせるのだから、アルラの両親には意地といえるほどの矜持があったのだろう。
アルラの黒髪はずいぶん長くなっていた。変わったとすればそのくらいで、家の凋落があってもアルラの性質は変わらない。明るく、生き生きとして、多くの友人に囲まれている。だからイェルクには、アルラに話しかける機会がないわけではなかった。けれど、クラスの違うイェルクと廊下ですれ違うことがあっても、彼女はけして目を合わそうとしなかった。イェルクは歯噛みするが、アルラのイェルクに限定したこの態度は今に始まったことではない。
急にアルラがよそよそしくなったのは、中等部に上がった頃だろうか。例え家が離れても、ちょっと時間を取って話すくらいならできるだろうと見積もったイェルクが訪ねていくと、アルラはあからさまにその場を去って離れた。イェルクは今でも、取り残されたときの呆然とした気持ちがまざまざと蘇る。
家運の傾きがアルラを変えたのなら、イェルク以外にも態度をおろそかにするはずだ。なぜ、自分だけ。未練がましくとも、イェルクは苦い気持ちを割り切ることができなかった。
イェルク以外の人間には幼い頃と変わらず快活に接するアルラ、という風景も拷問に等しい。遊ぼう、と笑顔でイェルクを誘ったかつての彼女の面影がどうしても離れなかった。
友達が様変わりしたとて、イェルクのやがては医者になるという展望は変わらない。家でも学校でも机に向かって日々がり勉である。けれど思考はそう変えられず、教室でイェルクはふと鉛筆を握る手を止める。ここは資金で籍をどうこうできる学校ではない。それ相応の学力が要る。未だ学籍を置き続けるアルラも、それに足る努力を欠かさずにいるのだろうと―やっぱりアルラのことばかりだ。
なんだか頭が痛い。効率の悪いまま机にしがみつき続けている弊害だろう。頭痛薬をもらおう、と保健室に向かった。
……その姿を見留めた瞬間、気まずさより憤りより、ぶわりと体温が上がる。保健室にはベッドの傍ら、アルラだけがいた。向こうもイェルクに気づくなり、ぎくりと肩を強張らせる。イェルクの血の気が引いた。アルラは背中まで伸ばしていたはずの黒髪を、ベリーショートと呼べるほど短く切っていた。
イェルクの心臓が引き絞られる。―いいな、とイェルクの髪に触れて、うらやましそうに言った幼い日のアルラとの距離の近さ。その思い出をも、ふいにされたようで……
「何で切ったんだ」
イェルクは、自分のものとも思えないほど切迫した声を出した。アルラの顔が悲痛に歪む。最初になじったのはイェルクなのに、その反応に傷つく矛盾。イェルクはつかつかと歩み寄って、壁際までアルラを追い詰める。アルラは強張りをほどかないまま、ただなすがままだった。
「……イェルク」
かあっと血が上る。ああ、名を呼ばれるのなんか、何年ぶりだろう。短い髪の筋に触れる。さりさりとした感触。
「何で、切ったんだよ……」
近づいても拒まれる間は、遠目に見える長い黒髪が密かな慰めだった。自分の銀髪をうらやんで伸ばし始めた、彼女の黒髪が。それはもはや、妄執とも言える域だと空しく気づきながら。
「売ったの」
は、とイェルクは短く息をついた。
「黒髪は、珍しいでしょ。高く売れるの。……下の子の学費に充てた」
目も眩む思いで、イェルクはアルラの肩を掴み寄せた。―どうして、と激しい声で。
「アルラ。どうして頼ってくれないんだ。切ってしまうくらいなら、その前に僕を頼れよ」
叫んだ拍子に、イェルクはなだれ落ちてきた自分の本音に気づいた。アルラに避けられる悲しみで、直視できなかった心の望み。アルラにずっと、そう言いたかった―こちらを向いて欲しい、と。
アルラはぽかんとしていた。その呆気に取られた表情に、イェルクはさまざまな感情がこみあげる。アルラ、と呼ぶ声が泣き出しそうだ。
「……どうして僕を避けるようになった? 僕は何か、アルラに嫌われることをしたのか? もしそうだとして、謝らせてもくれないのか―」
イェルクの銀髪の先が、さらりとアルラの頬にかかる。続けてほとりと、落ちる涙。アルラは気づかわしげな顔で、そっとイェルクの目元に指を滑らせた。
「……イェルク泣かすのなんか、初めてだ……」
何年かぶりに聞く、アルラの無防備な声だった。そして何年かぶりに触れる、アルラの手。途端にイェルクの視界に光明が差した矢先―ずるずると、アルラの身体がくずおれた。
「働きすぎてんの、我ながら」
にか、と保健室のベッドに横たわったアルラが力なく笑う。その顔色はよくみると青っぽい。そんな相手に食って掛かった自分(医者志望)を思い出して、イェルクは赤くなるやら青くなるやらだった。
「バイト掛け持ちしてんだ。この学校に居るためには、勉強だって欠かせないし、だから寝不足。ちょっと休ませてもらおうと思ったら、イェルクがいたの」
ベッドの脇に丸椅子を寄せて、項垂れるようにして付き添うイェルクの髪先に、アルラがそっと触れた。口元は笑んでいるのに、その目は切なげだ。
「……イェルクの綺麗な髪にはかなわないよ。あたしも手入れしてたけどさ……」
「……アルラ」
「でも、切って気が楽になったよ。……勉強諦めるな、って父さんと母さんが言ったんだ。家が傾いた頃も、イェルクにだけは負けるな、って。そしたらあたし、イェルクの顔が見られなくなった……。あたしたち、昔仲が良かったじゃん?」
過去形が続くアルラの言葉に、イェルクの顔も曇る。
「親は、昔みたいに戻ろうって必死だった。でもあたしは、昔がよすぎただけだって気づいてた。身の丈でほどほどで頑張ろうよって言い続けてたんだけど、最近、それがやっと親に通じてる感じがするのね」
過去を清算したように、さっぱりした声だった。対照的に、イェルクは嫌な予感を募らせる。
「下の子も小さいし、先があるし……。私は、もう十分頑張ったし。だからね、もうやめようと思うの」
何気ない言葉が、イェルクの頭を、胸を強く打つ。
「……やめるって、」
「進学目指すの、やめる。卒業したら働くの。だからね、イェルクにももう冷たい顔しないよ。残り少ないじゃん? ―今までずっと、ごめんね」
それを聞いても数年かけて炙られたイェルクの心は、全く癒されなかった。謝罪をして欲しいわけではなかった。そうではなかった。……イェルクは、ただアルラと。
アルラは、儚いような笑みを浮かべた。いっぱい傷つけて、ごめん。
「もう、あたしの顔見なくて済むようになるよ―」
ぎ、とベッドが鳴った。アルラは目を丸くする。イェルクが強く体重をかけたからだ。
「……イェルク?」
イェルクの、青みがかった銀髪がさらり流れて、アルラの顔のそばにそっと落ちてきた。椿の香油が、ふわり香る。
「―そんなのだめだ」
掠れた声で、イェルクが断じる。
「絶対、許さない」
―遊ぼう、アルラ。
養護教諭が、目を丸くしてカーテン越しのベッドを覗き込んだ。真っ赤に染め上げた顔を両手で覆ったアルラが、一人ベッドの上で悶絶していた。
「どうしたんです、アルラ。また働きすぎたの? 熱でも出した?」
アルラは涙の滲んだ顔をのぞかせて、せんせえ……と溺れた声を出す。
「初恋の人にお別れしようとしたら、初ちゅー奪われた……」
「あら、おめでとう」
「めでたくないよおおおおおおおぉぉ」
―忘れらんなくなるじゃん!!
キスを奪って逃げたかと思えば、保健室の外で待ち伏せていたイェルクに、アルラはまたもうひとつ叫びをこだまさせて。
まあいろいろ、事情はありましょうが。―そう簡単にあきらめてしまうのもつまらない。
何年もずっと忘れられず、諦めきれなかったのが何よりの証左。
とにかく、この手を取るところから始めて欲しい。そう手を差し伸べたイェルクを、アルラは潤んだ目で見返した。
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