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4
石壁の亀裂から噴き出す地下水が、大理石の彫刻のような、『石動の皇』の滑らかで美しい裸体を洗い清める。凍りつくような水の冷たさに身体がピリピリと痺れる。
『石動の皇』は自らの胸を見る。
左胸に刻まれた八つの刻み目。
ナイフか何かで傷つけられたように見える。
まだ人間だった頃のものらしいが、いかなる理由で傷つけられたのか『石動の皇』自身にも分からない。魔力を与えられ『偽りの魔女』となった時に、人間だった頃の記憶を全て失っているからだ。
しかしそっと刻み目に触れると、己の中に勝利への渇望が湧き上がってくるのを感じる。
(僕はもっと強くなれる。強くなってもっともっと勝ちたい……)
バスローブを纏いタオルで髪を拭きながら浴室を出ると、緋色の髪の女が椅子に腰かけて待っていた。『石動の皇』は女を見てにっこりと笑う。
「よく来てくれました、マダム・スカーレット」
「今はマダム・スカーレットではありませんわ。ここではルサーナと呼んで下さいな」
「ああ、そうでしたね。すみません」
緋色の長い髪を後ろで編み、銀縁の眼鏡をかけた『緋蠍妃』は、マダム・スカーレットを名乗っていた時とは全く異なる貞淑で知的な淑女の姿である。豊満な身体に清楚な宮廷服を纏い、両手には書類の束を抱えている。
「今日はグリフォンズロックの来年度予算の決裁書を持ってきましたの。確認して承認印を貰えるかしら?」
『石動の皇』は渡された書類の束に目も通さず、テーブルの上の印章を次々と無造作に押していく。それを見て『緋蠍妃』は微笑んだ。
「クスクス。貴女って本当にこういった仕事には興味ないのですわね。でも何も気にしなくていいですわ。街の経営は私に任せて、貴女は闘技場の運営に集中して下さいな」
「ありがとう。僕は戦う事しか取り柄が無いから、君がいてくれて本当に助かります」
「クスクス。街中の憧れの的である貴女に褒められるなんて光栄ですわ。でも今回は予算を組むのが楽でしたわ。闇市の収益が過去最高でしたから」
闇市という言葉を聞いて、『石動の皇』の顔がスッと暗くなる。そして吐き捨てるように言った。
「正直、あんなものは今すぐ潰したいのですけどね。あそこは人間の屑が集まる掃き溜めです。それに闘技場を使った賭博など、戦いを穢す悍ましい行為ですよ」
「あら。綺麗事だけでは世の中は回りませんのよ。闇市の収益があるからこそ、街の税金を安くする事が出来るのですしね。それに全ての人間の心に善と悪がある以上、悪を潰すなど不可能ですわ。それならうまくコントロールする方法を学んだ方が得策ですわよ。……そういえば昔、どこかの魔女が似たような事を言っていた記憶がありますわ。貴女は覚えていないかしら?」
「さあ、知りません」
『石動の皇』は全く関心のない様子でそう言った。『緋蠍妃』は再び微笑んだ。
「クスクス。説教くさい話をしてしまってごめんなさいね。でも高みを目指すのはいいですけど、それでは近いうちに足元をすくわれますわよ」
「どういう意味です?」
『緋蠍妃』は懐から丸めた羊皮紙を取り出し、『石動の皇』に手渡す。興味なさ気に受け取った『石動の皇』だったが、羊皮紙に描かれたスケッチを見て顔色が変わる。
「昨日、闇市のとある店に、この宮殿の見取り図を入手しようとした女が現れたらしいですわ。それは店主の証言をもとに書かせた似顔絵ですわ」
「だけど、この女はまさか……」
「ええ。そのまさかですわ。『金蛇の君(アンフィスバエナ)』は倒されたと見るべきですわね。やっぱり『黒衣の公子(ブラックプリンス)』の言う通り、あの子一人に監視役は無理だったのですわ。まあでも、あの子以外、誰も危険な『黒獅子姫』を側に置きたがらなかったのですから仕方ないですわね。正直、私だって嫌でしたもの」
『石動の皇』は顎に手を当て考え込む。
「……そう言えば数日前、この宮殿に侵入しようとした賊がいたようです。あまり気には留めていなかったのですが、今にして思えばあれが『黒獅子姫』だったのでしょう」
「そんな事があったんですの。危ない所でしたわね。でも私達二人が力を合わせれば『黒獅子姫』など恐るるに足りませんわ」
「いえ。『黒獅子姫』とは僕一人で戦います」
『石動の皇』はきっぱりと言った。
(そんな事を言い出す予感はしていましたわ。本当に救いがたい戦闘莫迦ですわね……)
『緋蠍妃』は内心呆れたが、口には出さず必死に説得しようとする。
「それはいけませんわ。いくら力が衰えているとはいえ、相手は『真なる魔女』。貴女一人で勝てる相手ではありませんわ。貴女にとって敗北は死を意味するんでしょう? でしたらこれはただの自殺行為ですわ!」
「確かに昔の僕なら自殺行為だったでしょう。しかし僕は与えられた魔力だけに頼らないよう、絶えず研鑽を積んできました。今の僕なら『黒獅子姫』に後れは取りません。ですから手出しは無用です」
強敵と戦える喜びに『石動の皇』の頬は赤く上気し、瞳は興奮のあまり潤んでいる。それを見て『緋蠍妃』は完全に説得を諦めた。
(……まあ、好きにすればいいですわ。私は私のやり方で『黒獅子姫』を始末しますから)
**********
リシャエラは陽気な鼻歌を歌いながら居住区の廊下を歩いていた。
手には洗濯籠。
中庭で洗濯物を干してきた帰りだった。
「おっ、今日は朝から元気だねえ。何かいいことでもあったのかい?」
紙の束を抱えた競技委員のメイゼンが声を掛けてきた。
「まあね。それより、メイゼン。あたしの契約期間っていつまでだっけ?」
「ええと、ちょうど今月末までだね。今から契約更新の手続きしておくかい?」
メイゼンは手帳をパラパラと捲りながら言った。しかしリシャエラは首を横に振る。
「ううん。実は今回で契約を終わりにしようと思うんだ」
「えっ? だけどここを辞めた後、どこか行くあてはあるのかい?」
「今は無いよ。でもダグがいるから大丈夫」
驚いたメイゼンは抱えていた紙の束を落としそうになる。
「ええっ!? だ、だけど君とダグボルトじゃかなり年齢差があるよ。愛に年の差は関係ないかもしれないけど、結婚にはまだ早いんじゃないかな?」
今度はリシャエラが驚いて顔を真っ赤にする。
「はあ!? ちち違うって!! 結婚とかそういうんじゃないの!!」
リシャエラは慌てて事情を説明する。
「ふう。何だ、そういう事か。確かにリーシャに剣闘士はあまり向いていないかもしれないね。ダグボルトならきっと親身になって新しい居場所を探してくれるだろう。私も力になれる事があればいつでも相談に乗るよ」
「ありがとう、メイゼン」
リシャエラは洗濯籠を持って立ち去ろうとした。しかし急に何かを思い出したメイゼンに引き留められる。
「あ、ちょっと待ってくれるかな。このビラを貼るのを手伝って欲しいんだ」
「ビラ?」
「ああ。何でも『石動の皇』様直々の指示らしくてね。今日はノーランクの剣闘士全員に特別外出許可を与えるから、手分けして街中にこれを貼ってくれってさ」
「全員に外出許可ってすごいね。それで一体どんな内容なの?」
リシャエラはビラを一枚手に取って眺める。すると見る見るうちに顔が青ざめていき、洗濯籠が手から滑り落ちる。
「どうした、リーシャ? お、おい、どこに行くんだ、リーシャ!?」
ビラを持って走り去るリシャエラ。
メイゼンはその後姿を呆然と見つめていた。
(なぜ俺はリーシャにあんな事を言ってしまったんだろう。今は『石動の皇』との戦いに集中すべき時なのに……)
ダグボルトはひとり訓練場にいた。黒の訓練着を着て訓練用の木製ハンマーとヒーターシールドを手にし、木人形相手に黙々とトレーニングを続けている。
しかし淡々と戦いの動作を繰り返す肉体とは裏腹に、頭の中では全く別の思考が蠢いている。
(……いや、理由は分かっている。リーシャは昔の俺そのものだからだ)
『黒の災禍』の遥か前、ダグボルトもまた孤児だった。
両親に捨てられてたダグボルトは生きるために、スリ、引ったくり、空き巣などの犯罪行為を繰り返し、手を汚し続けた。もしそのままの生活を送っていたら、さらにエスカレートして強盗、殺人、そして最後は絞首台行きだっただろう。
しかし偶然がダグボルトを救った。
ある日、空き巣に入った教会で若いシスターに見つかってしまった。
シスターはダグボルトにこう言った。衛兵に引き渡されて牢屋に入るか、今までの罪を悔い改め聖天の女神に仕えるか、どちらか選べと。
もはや選択の余地など無かった。
それがダグボルトが十四の時だ。
(そして俺は聖天教会で武器の使い方を学び、聖堂騎士となった。俺がまっとうな道を歩めるようになったのはあの時のシスター――『真なる聖女』でもあったセオドラ・エルロンデのおかげだ。だから亡きセオドラの代わりに今度は俺がリーシャを救うんだ)
思考に耽りながらも、ダグボルトのハンマーは木人形に描かれた急所を的確に捉えていく。
(そうだ。ハイント村の村長に、リーシャを村に置いて貰うよう交渉してみよう。宿の女将が預かってくれると助かるんだがな。『金蛇の君(アンフィスバエナ)』、いやマリーアンもリーシャが姉代わりになれば喜ぶだろう)
考えが纏まるとダグボルトはトレーニングを止めて石のベンチに腰かけた。木製ハンマーとヒーターシールドを壁に立てかけ、首に掛けたタオルで汗をぬぐう。
その時、リシャエラが訓練場に入って来た。
「リーシャ、ちょうど良かった。お前に話したい事があるんだ」
しかしリシャエラは何も答えず、真っ直ぐダグボルトに近づいてきた。いつもとはどこか様子が違う。
「これ」
リシャエラは手にしたビラをダグボルトに渡す。
『決闘状』
私の命を狙いし魔女 『黒獅子姫』に告ぐ。
闘技場にて貴女との一対一の公正なる勝負を望む。
直ちに闘技場まで来られたし。
なお市民は決して『黒獅子姫』に手出ししてはならない。
もし手出しした者には、私自らの手で裁きを与える。
グリフォンズロックの魔女 『石動の皇』
簡潔かつ明瞭な、『石動の皇』らしい文章だ。
しかもご丁寧な事に、文章の下に『黒獅子姫』の似顔絵が描かれている。これでは『黒獅子姫』の動きは街の人間に筒抜けだ。もはや隠密行動など出来ない。
「この魔女、何日か前にあんたと一緒にいた奴だろ」
リシャエラの言葉を聞いて、ダグボルトはその日の出来事をはっきりと思い出す。しかし表情には出さず無関心を装う。
「確かに似ているが人違いだろう。あれはただの娼婦だ。ありふれた顔だから間違えるのも無理はないがな」
次の瞬間、ダグボルトの喉に金属の冷たい感触。
短刀を押し当てているリシャエラの冷酷な顔つきは、ダグボルトが今までに見た事が無いものだ。
「そんなの嘘だ、ダグ。本当の事を話さないと、あんたは今ここで死ぬよ」
(こいつの目は本気だ。無理に短刀を奪い取ろうとしたり、誤魔化そうとすれば容赦なく俺の喉を掻き切るだろう……)
ダグボルトはついに心を決めた。
「ああ。今のは嘘だ。お前が言う通り、この前の女はその魔女だ。俺はそいつの仲間なんだ」
「やっぱり、そうだったんだ……。あんたが闘技場に来たのは、『石動の皇』様を殺すチャンスを窺うためだったんだね……」
「待て、それは誤解だ。俺達の目的は『石動の皇』の魔力を回収する事で――」
「ずっと、ずっとあたしを騙し続けてきたんだね、ダグ……。あんたは誇り高き剣闘士なんかじゃない。ただのスパイだ! 信じてたのに……。あたしの居場所を見つけてくれるって言ったのに……。全部、嘘だったんだね……」
「違う! 俺の話を聞け! あの時の言葉は嘘じゃない。お前のために俺は――」
「ダグの馬鹿ーーーッ!!」
リシャエラは短刀を床に叩きつけると、泣きながら訓練場を飛び出していった。
ダグボルトもすぐに後を追うが、通路にいた剣闘士達にぶつかり見失ってしまった。
**********
昼食をとるために自分の部屋から一階に降りてきた『黒獅子姫』は、酒場にいる酔客達が自分の事をうさんくさげな目で見ていることに気づいた。
(一体、何が起きたんじゃろな?)
『黒獅子姫』が空いている席につくと宿の主人のオックスがやって来た。いつもとは違い顔色が冴えない。
「ミルダさ……、いや『黒獅子姫』さん。な、何になさいますか?」
その言葉に『黒獅子姫』は凍りつく。
「どうしてその名を……」
オックスは何も言わず、酒場の柱に貼られたビラを指差した。
「決闘状!?」
『黒獅子姫』はビラを剥ぎ取ると、短い文章を何度も目で追った。
「フフッ」
そして不意に笑い出す。
静かだがどこか冷たく恐ろしげな笑いに、酔客達は一瞬で酔いから醒める。
「なるほど、なるほど。確かに『石動の皇』は昔からそういう奴じゃったのう。初めから余計な小細工なぞ必要なかったんじゃ。正面から出向いて、一対一の決闘を申し込むだけで良かったんじゃな」
テーブルの上に闘技場の代用硬貨が詰まった袋を置くと、『黒獅子姫』は立ち上がった。
「今までありがとうじゃ、オックス。これはささやかなお礼じゃ」
『馬の骨亭』を出ると中天の日差しが目に眩しい。
『黒獅子姫』は闘技場に向かって、しっかりとした足取りで歩き出した。
**********
「ねえ、あたしの話をちゃんと聞いてってば!!」
リシャエラは闘技場の警備兵詰所にいた。
昼食をとっている警備兵達の前で口泡を飛ばし、必死に訴えかけている。
「闘技場の剣闘士の中に悪い魔女のスパイがいるんだよ!! 早く『石動の皇』様に知らせなきゃ大変な事になるんだってば!!」
「いいから落ち着け。ほら、パン一口食うか?」
丸顔の警備隊長が差し出したパン屑を、リシャエラは地面に叩き落とす。
「そんな場合じゃないんだって!! とにかくあたしが言った事、今すぐ『石動の皇』様に報告してよ!!」
しかし警備兵達には危機意識など全く無いようで、のんびりと食事を続けている。
「どうでもいいが、ノーランクの剣闘士はみんな外でビラ配りなんだろ、リーシャ? お前も行かなくていいのか?」
「そうだよ。折角、特別外出許可が下りたんだから、ビラ配りついでにどっかで遊んで来いよ。俺だって本当はこんな仕事休んで、ビラ配りに行きたいんだからな」
「奇遇だな、俺もだ。隊長、俺らにも特別外出許可下りませんか?」
「下りるか、莫迦。代わりに永久外出許可をくれてやるから二度と闘技場に戻って来るな」
警備兵達はリシェエラの言葉など気にも留めず、口々に適当な事を言っている。
怒り狂ったリシェエラが食事の載ったテーブルをひっくり返そうとした時、背後から声が掛かる。
「どうしたのかしら?」
詰所の入口に緋色の髪の女が立っていた。リシャエラには全く面識のない女だ。
「ルサーナさん。そいつの事は気にしないでください。子供が適当な事を喚いているだけですよ」
警備隊長は事もなげに言った。
「あら、子供と言っても剣闘士でしょう? そんなに必死に話しているのに、ちゃんと聞いてあげないのは失礼ですわ」
緋色の髪の女――『緋蠍妃』はリシャエラに優しく微笑みかける。
「私はルサーナ・ベドワ。『石動の皇』様の私設秘書ですの。貴女のお名前は?」
「あたしはリシャエラ。リーシャって呼んでください。あたし、『石動の皇』様に今すぐお伝えしなければいけない事があるんです」
「それなら私が聞きますわ。私の執務室でお話しましょう」
『緋蠍妃』の執務室は『石動の皇』の地下宮殿の中にあった。
柔らかな座り心地の長ソファーに腰掛けたリシャエラは、生まれて初めて入る高貴な場所に緊張を隠せない。
「ハーブティーですわ。それを飲めば心が安らぎますわ」
『緋蠍妃』は大理石のテーブルに湯気の昇るカップを置いた。そしてリシャエラのすぐ隣に腰を下ろす。
「それで『石動の皇』様にお話したい事とは何ですの?」
「闘技場の剣闘士の中に、『石動の皇』様の命を狙う魔女のスパイがいるんです」
『緋蠍妃』の優しげな顔から笑みが消える。
「……それは『黒獅子姫』の手下という事ですわね。確かな情報ですの?」
「はい。魔女と一緒にいる所を見ましたし、本人もはっきりと認めました」
「そう。それなら間違いありませんわね。じゃあその剣闘士のお名前を教えて下さる?」
――ダグボルト。
リシャエラは口に出そうとした。
だが喉がつかえたかのように言葉が出てこない。
ハーブティを一飲みして喉を湿らせるが、やはり言葉に詰まってしまう。
「……………………」
「あら? 言えないのかしら? あなた、その方との間に何かあったんですの?」
いつの間にかリシャエラの瞳は潤んでいた。
心の中はぐちゃぐちゃにかき回され、自分でもどうしたらいいか分からない状態だった。
「あいつは……何度もあたしの事を助けてくれました。あたしの大事な仲間でした……。でもそれは違ったんです。あいつはただ、あたしを利用していただけでした。いや、あたしだけじゃない。闘技場そのものを自分の目的のために利用していたんです……」
「まあ、可愛そうに……。貴女、その方の事をとても信頼していたんですわね。でも信頼を裏切った方に義理を感じる必要はありませんわ。さあ、お名前をお話しなさい」
リシャエラは何度も名前を言おうとした。
しかしその度に喉の奥で言葉がつかえてしまう。
「やっぱり……言えません……」
すると『緋蠍妃』は心地よい声で笑い出した。
「クスクス。裏切られてもなお、一途に想い続けるそのお気持ち、とても素敵ですわ。貴女にそこまで強く想われてその方も幸せですわね」
『緋蠍妃』はリシャエラにぴたりと体を寄せた。そして耳元で甘く囁く。
「その方のお名前を言えないというのなら、代わりにいい方法がありますわ。貴女の手で、その方を少しだけこらしめてあげればいいのですわ」
リシャエラは驚いてソファーから立ち上がった
「それは無理です!! あいつはすごく強いんですよ。あたしじゃ全く歯が立ちません!!」
「それなら心配いりませんわ。私が力を貸してさしあげますからね」
リシャエラの胸に鋭い痛みが走る。下を向くと服の胸元から淡く光る小さな蠍が這い出てきた。
「あの……これ……?」
「クスクス。貴女は生まれ変わるのですわ、リーシャ。もっと気高く美しい存在に。そう。蝶のように――。薔薇のように――」
リシャエラの小柄な身体が歪み、捻じれ、別の身体に組み替えられていく。『緋蠍妃』は美しい顔に妖艶な笑みを浮かべて呟く。
「――あるいは蠍のように」
**********
「リーシャ。こんな所にいたのか。心配したぞ」
ダグボルトは屋内試合場でリシャエラを見つけた。
ノーランクの剣闘士達は全員ビラ配りに駆り出されているため、今日の模擬戦は全て中止となっている。そのためか屋内試合場にはダグボルトとリシャエラしかいない。
「その格好はどうしたんだ?」
リシャエラは先程まで着ていたレーザーメイルでは無く、ゆったりとした緋色のフード付ローブを身に纏っている。
「まあいい。それよりさっきの話の続きがしたい。俺は――」
ダグボルトの言葉が止まる。
リシャエラは泣いていた。
虚ろな目から一筋の涙が流れ落ちている。赤い血の涙が。
「ダグ……お願い、逃げて……。お願い……」
緋色のフード付ローブの中で、リシャエラの身体が変形を始める。
皮膚は赤黒い甲羅、両手には大きな鋏、背中からは長い蠍の尾。尾針からは毒液を滴らせている。
もはや若草のように溌剌として爽やかなリシャエラの姿はどこにもない。
そこには蠍と人が混じり合った悍ましき『蠍の異端』がいた。
「リーシャあああああああああああああッ!!」
ダグボルトの悲痛な叫びが屋内試合場に響き渡る。
『異端』に変生した者は、たとえ生み出した魔女が魔力を失ったとしても人間に戻る事は無い。
人間に戻れるのは死んだ時だけだ。
ここまでの旅の途中で『黒獅子姫』にそう聞かされていた。
(リーシャを殺さないといけないのか? 必ず居場所を見つけてやると約束した、この俺が?)
『蠍の異端』の尾針が丸腰のダグボルトに突き込まれる。
ダグボルトは飛びずさってかわすと、壁に掛けてあったバックラーを手にする。壁には武器も掛けられているが、殺傷力の無い模擬戦用のものだけだ。
(違う! あれはもうリーシャじゃない。ただの『異端』だ。迷いを捨てろ、ダグボルト。冷酷で無慈悲な俺に戻るんだ)
ダグボルトは右の拳を固く握りしめる。
(聖天の女神ミュレイアよ。『真なる聖女』セオドラよ。どうかご加護を。この呪われた世界をまだ完全に見放していなければだが)
右腕を構成する黒蟻が祈りに応えるかのようにざわめいた。
ダグボルトは『蠍の異端』が振り回す長い尾を左手のバックラーで受け流す。しかしリーチの差がありすぎるため、なかなか『蠍の異端』に接近できない。
「キェシャエエエエエエエエエエエエエエエ!!」
軋るような叫び声。『蠍の異端』は身体を捩じるようにして宙を舞う。
右手の大鋏がダグボルトの喉を掠める。
際どい所でかわしたダグボルトの胸に、ひねりの入った飛び蹴りが見舞われる。
「ぐはッ!!」
肺の空気が一瞬で失われる。体勢を崩したところに、今度は長い尾が振り下ろされる。ダグボルトは地面を転がって回避した。叩きつけられた尾先の針から毒液が飛び散り床を焦がす。
『蠍の異端』のトリッキーな攻めにダグボルトは翻弄される。
もはや心に迷いなど持っている場合ではなかった。
(やっかいなのはあの長い尾だ。あれさえ潰せれば接近して拳を叩き込めるんだが……)
ダグボルトは一か八か『蠍の異端』の懐に強引に飛び込み、脇腹に拳を打ち込もうとした。
しかし踏み込みが甘いせいで距離を見誤り、拳は無様に空を切る。バランスを崩したダグボルトは片膝をついてしまう。
その隙を『蠍の異端』は見逃さない。
長い尾を後ろに引いて勢いを溜めてから、尾針をダグボルトの無防備な身体目がけ突き立てようとする。
「……やっぱり、お前はリーシャだ。こんな単純な芝居に引っかかっちまうんだからな」
ダグボルトは悲しげに呟いた。
身体を横に捻って尾針をかわす。尾針は床板に深々と突き刺さる。
間髪入れず、ダグボルトの右拳が『蠍の異端』の尾先に叩き込まれる。
「イェギェアアアアアアアアアアアアアア!!」
『蠍の異端』の苦痛に満ちた叫び声。
拳がめり込んだ尾先から青い血と肉片が飛び散る。『蠍の異端』はよろよろと後退する。
ダグボルトは『蠍の異端』との距離を一気に詰めた。大鋏をバックラーで弾き、鳩尾に下からのボディブローを見舞う。
「ゴボッ!!」
『蠍の異端』の口から白く濁った胃液が噴き出す。
鳩尾の甲羅に大きな亀裂が入り、青い筋肉がむき出しになる。
「許せ、リーシャ」
再び鳩尾に右拳が捻じ込まれる。
拳は青い筋肉を裂いて『蠍の異端』の身体を貫通する。
『蠍の異端』の口から青い血がゴボゴボと溢れ出す。
ダグボルトが拳を引き抜くと『蠍の異端』はゆっくりと地面に倒れた。
やがて身体が動かなくなると白い煙が立ち昇り、愛らしい元のリーシャの姿へと戻った。
ダグボルトはリーシャの目を閉じてやった。
顔の血を拭うと、まるで眠っているように見える。
だが彼女の身体からは、少しずつ温もりが失われていく。
身体が空っぽになったような気分だ。
全身の力が抜けてゆくのを感じる。
頼むから少し休ませてくれ――。
何もかも忘れてゆっくりと休みたいんだ――。
だがダグボルトはすぐに我に帰る。
彼にはまだ成すべきことがあった。
(……リーシャを『異端』に変えたのは『石動の皇』じゃない。そうだ。魔女はもう一人いた!)
ダグボルトは両手で自らの顔をぴしゃりと叩き、心を引き締めると立ち上がった。
リーシャの遺体を上着で包み、ひとまず屋内試合場の更衣室に隠す。
(一対一ならば対等な戦いが出来るかもしれんが、二対一では無理だ。早くミルダにもう一人の魔女の事を伝えなければ!)
**********
楡の木の切り株に腰掛け、夕焼け空をぼんやりと見ながら煙草を燻らせる。
仕事の後の一服は最高だ。
遠くにぼんやりと映るレンガ造りの街並み。そして巨大な闘技場。
目の前には墓穴が二つ。
それらは規則正しく立ち並ぶ墓石の最後の列に掘られている。
ここはグリフォンズロック郊外の墓地。
年老いた墓守は一本目を吸い終え、二本目に火をつけるか迷う。そこに騾馬に引かれた荷馬車がのんびりとやって来た。
「よお、爺さん。今日も死にたての新鮮なやつを運んできてやったぞ」
「じゃあさっさとそこに置いてけ」
墓守はにこりともせずに言った。御者台の若い競技委員は肩をすくめ、荷台の棺桶を降ろす。
その数三つ。
「おい、待て」
「なんだよ、爺さん?」
「今日の死人は二人だって聞いてるぞ。なんで棺桶が三つあるんだ?」
「さあな。ちょっとした手違いだろ。競技以外でも剣闘士が死ぬ事はままあるからな。例えばうっかり水風呂に入って心臓麻痺とか……。まあとにかくいちいち気にすんなよ」
競技委員の無神経な言葉を聞いて、墓守は皺だらけの額に青筋を立てて怒り出す。
「気にするなだとォ!? お前んとこの奴が死人は二人だって言ったから、儂は墓穴を二つしか掘らなかったんだぞ!! 一体どうしてくれるんだ!!」
競技委員は墓地の二つの墓穴を見た。そしてまた肩をすくめる。
「じゃあ頑張ってもう一つ掘んなよ」
それだけ言うと競技委員は御者台に飛び乗り、さっさと帰っていってしまった。
墓守は震える手で二本目の煙草に火をつける。そして二、三口吸うと地面に投げ捨て、近くの木に立てかけてあったスコップを手に取った。
「まったく!! 最近の若いもんときたら!! 数もまともに数えられんのか!!」
すると地面に並べられた三つの棺桶のうち、一番大きな棺桶の蓋がゆっくりと開く。
中から現れたダグボルトを見て、墓守はぽかんと口を開ける。ダグボルトは若い競技委員を買収して死体と一緒に闘技場の外に出して貰ったのだ。少し前に考案し、準備していた脱走方法であった。
「爺さん、良かったな」
ダグボルトは棺桶の外に出ると、固まっている墓守に声を掛けた。
「はあ……?」
「墓穴をもう一つ掘らずに済んだだろ?」
「まあ……確かに……」
「俺の事は気にしないでくれ。じゃあな」
ダグボルトは走り出した。すでに日は暮れかけている。
十五分ほどでダグボルトは市街地にたどり着いた。しかしいつもとは様子が異なり、人気が無く不気味なほど静まりかえっている。
「おい!! ミルダはどこだ?」
『馬の骨亭』に飛び込むなり、ダグボルトは叫んだ。
一階の酒場に客はおらず、宿の主人のオックスがひとり黙々とテーブルを拭いている。
オックスはダグボルトを見て驚いた顔をした。
「あんた、こんな所で何してるんだ? てっきりあの人の闘技試合を見に行ったものかと思ってたよ」
「あの人ってミルダの事か? じゃあもうここにはいないのか?」
「ああ、そうだよ。昼頃にここを出て闘技場に行っちまったよ」
「くそッ!! どうしても知らせないといけない事があるのに!!」
ガラン、ガラン。
その時、闘技場から鐘の音が鳴り響いた。
それは戦いの合図。
『石動の皇』と『黒獅子姫』の命を懸けた戦いが始まった事を告げていた。
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