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 苦しげに咳き込むダグボルト。  あばらにひびが入ったようだ。  だが今の状況を考えれば、むしろそれだけで済んで有難いというものだ。  頭上を見上げても闇が広がるだけだ。どのくらい落ちたのかは分からないが、かなりの高さだった気がする。  そこは石壁に囲まれた十ギット(メートル)四方の部屋であった。地面はかすかな光を放っている。床に敷き詰められた蛍砂の光だ。砂のおかげで落下の衝撃が多少は和らいだのだろう。  立ち上がりかけたダグボルトは、目の前の光景にハッと息を飲む。  両腕を銀の鎖で縛られ、壁から吊り下げられた裸の少女。  年は十四、五歳ぐらいだろうか。  肩のあたりまで伸びた髪は黒く、くしゃくしゃとしたくせっ毛。閉じられた目の下には隈があるが、退廃的な美貌の持ち主だ。  肌は青白く、ほっそりとした小柄で痩せぎすの身体。胸は小ぶりで、股間にはうっすらと生えた黒い恥毛。  息はあるようだが、軽く揺さぶっても目を覚ます気配はない。 「セオドラ……」  ダグボルトはぽつりとつぶやく。そして無意識に発した自分の言葉に驚く。  目の前の少女はセオドラとはまったく似ていない。  顔も、髪の色も、体形も。  セオドラは快活で側にいるだけで癒されるような娘だったが、この少女にはどこか怖気を感じさせるところがある。全く真逆と言ってもいい。 「グルル……」  戸惑うダグボルトの背後から、不意に獣の唸り声。  振り返ったダグボルトはギョッとする。  部屋の奥から現れたのは黒い体毛の巨大な獅子。瞳は煮えたぎるマグマのように煌々と輝いている。しかし手負いなのか、動きはふらふらしてどこかぎこちない。 「グゥオオオオオオオオ……」  力の無い雄叫び。獅子は鈍重な動きでダグボルトに飛び掛る。  それを簡単にかわしたダグボルトは反射的にスレッジハンマーを獅子の身体に叩きつけていた。 「!?」  液体を殴りつけたような手ごたえのない感覚。  そしてダグボルトの右腕に走る激痛。  腕を見ると無数の黒い塊が蠢いている。塊を指でつついてみると、それは大きな黒蟻の群れであった。  慌ててダグボルトは、腕に噛みついている黒蟻を手で払う。払われた黒蟻の群れは獅子の体に戻っていく。 「まさか……」  ダグボルトはようやく気づく。  この黒き獅子の巨体が無数の黒蟻によって構成されている事を。  いったいどれだけの黒蟻が集まって、このような巨大な姿を形作っているのだろうか。 「グゥオオオオオオオオン」  緩慢な動作で再び獅子が飛び掛かる。だがダグボルトはあっさりと身をかわす。  幾度となく同じことを繰り返しているうちに彼の頭に疑問が生じる。 (こいつ、妙に攻撃的だが動きは鈍いし、一体何がしたいのやら……)  不意に彼は閃く。  ズボンのポケットに手を突っ込むと、ハンカチで包んだ砂糖菓子を取り出す。  すると獅子の瞳が激しく輝き、口から涎がだらだらと溢れだした。涎が落ちるとジュウという音がして地面の砂が焦げる。  このような状況でなければ、ダグボルトは笑っていた事だろう。ハンカチを開いて砂糖菓子を地面に放ると、黒き獅子は一瞬で形を失い、砂糖菓子に群がっていく。 (まさか俺じゃなくて菓子が狙いだったとはな。獅子のように見えても、所詮は蟻か)  やがて潮が引くように黒蟻の群れが動き出した。砂糖菓子は跡かた無く消えている。  黒蟻の群れは裸の少女の身体に纏わりつき、今度は漆黒のローブを形作る。  ダグボルトは息を飲んだ。  少女のまつげがピクピクと震えている。  スレッジハンマーを構え、ダグボルトはそろそろと近づく。少女の目がうっすらと開いた。 「何奴じゃ……? 教会の飼い犬のようじゃが、まだ生き残りがおったのか……?」  少女はダグボルトのスレッジハンマーに刻まれた聖印を見て空ろな声で囁いた。 「俺の事はどうでもいい。お前こそ何者だ?」  ダグボルトは強い口調で詰問する。 「わしは『真なる聖女』の対となる……『真なる魔女』、『黒獅子姫(ミルメコレオ)』」  魔女という言葉にダグボルトは身を震わせる。 「じゃあお前は『金蛇の君』の仲間か!!」  すると『黒獅子姫』の薄い唇に微かな笑みが浮かぶ。 「『金蛇の君』は『真なる魔女』ではないぞ。あれはわしが魔力を貸し与えて、魔女に仕立て上げた『偽りの魔女』じゃよ」 「仕立て上げた?」 「そう。罪無き女達を殺し、さらには聖女すら殺してしまうような、愚かで傲慢で驕り高ぶった教会をわしは許せんかった。じゃから魔女の容疑をかけられた可哀想な娘達に魔力を貸したんじゃ。魔女の軍勢を創り出して教会に戦いを挑むためにのう。クレメンダールは魔女に関していろいろと吹聴していたが、あれは全部でたらめ。魔女は決してこの世界に災厄をもたらすような存在ではない。そしてこの世界で本物の魔女はわし一人だけなのじゃよ」  それを聞いてダグボルトの顔が怒りで赤黒く染まる。 「災厄をもたらすような存在じゃない? 話を聞く限り、この世界が破滅した原因は全てお前にあるとしか思えんがな!!」  『黒獅子姫』は深いため息をついた。 「全てというのは誤解じゃ。わしは教会を滅ぼすつもりじゃったが、この世界まで破壊する気はなかった。この世界がメチャメチャになった原因は、『偽りの魔女』共の暴走じゃよ」 「暴走だと?」 「教会との戦いが終わった後、わしはあやつらに貸し与えた魔力を回収しようとしたのじゃがな。もちろん、二、三人くらいは力を返したがらずに抵抗するじゃろうと予想しておったが、まさか全員に背かれるとはのう。魔力を貸し過ぎたせいで、わしには『偽りの魔女』全員と戦う力は残っておらんかった。そうして今、わしはここに幽閉されとるというわけじゃ」  『黒獅子姫』は皮肉っぽい笑みを浮かべた。  しかしダグボルトは赤黒い顔のまま、スレッジハンマーを振り上げる。 「お前の話が全て本当だというなら、お前が死ねばこの世界は救われるわけだ!! 他の魔女どもに力を貸し与えているのなら、お前を殺せばそいつらの力も失われるだろうからな!!」 「そうかもな。まあ殺したければ殺してもよいぞ」  『黒獅子姫』はあっさりと言った。  だがダグボルトは力無くスレッジハンマーを下ろす。 「……いや、よくよく考えてみれば俺に魔女を殺す力は無い。魔女を殺せるのは聖女だけ。だがその聖女はとうの昔に死んでしまったんだ」 「それは違うぞ」  『黒獅子姫』はきっぱりと答える。 「何?」 「魔女を殺せるのは聖女だけじゃない。魔女も魔女を殺す事が出来るのじゃ」  その言葉の意味に気づいたダグボルトは、目を大きく見開く。 「まさか、お前と取引しろっていうのか? お前をここから解放しろと?」 「うむ。私をここから解放してくれれば、『偽りの魔女』をみんな倒してやるぞ。そうすれば、わしはあやつらに貸し与えた魔力を回収出来る。そしておぬしも、この世界から『偽りの魔女』がいなくなれば文明社会を再建出来るじゃろ? 悪くない取引だと思うがの」 「お前を信用できるかも分からないのにか? 魔力を取り戻した後は、今度はお前が人類の敵になって、世界を滅ぼすかも知れないんだぞ」 「さっきも言った通り、本来の魔女は世界に災厄をもたらす存在ではない。わしには人類に対する憎しみも破壊願望もない。信じる、信じないはおぬし次第じゃがな」  『黒獅子姫』はダグボルトを見つめ、厳かに言った。  彼女の黒い瞳は凪の海のように静かに穏やかに輝いている。  嘘をついているようには見えない  ダグボルトの脳裏に、磔にされ炎に包まれるセオドラの姿が映る。  そういえばあの時のセオドラもこんな目をしていた。  偽りの罪で処刑されるというのに、その目は静かに穏やかに輝いていた。  この女はセオドラに全く似ていないが、しかしやはり似ている……。  セオドラ……。  あの時、どんな事をしてでも処刑を止めていれば……。  二人で一緒に逃げてさえいれば……。  だが、あの時の俺は決断を下すには若すぎた……。 (今は違う! 俺には決断することが出来る!)  ダグボルトはスレッジハンマーを振り上げ、『黒獅子姫』の腕を拘束する鎖に力強く叩きつける。鎖は軋みをあげるが、滑らかな表面は傷一つついていない。  『黒獅子姫』は悲しげに首を横に振る。 「その鎖は魔力を帯びとるから普通の武器では切れんぞ。しかもわしの魔力はその鎖に吸い取られ続けとる……。代わりに鎖が埋め込まれた壁の方を破壊出来んかのう?」  ダグボルトはスレッジハンマーで石壁をコンコンと叩き、傷がついているのを確認する。 「確かにここの壁は魔力を帯びていないようだな。破壊するのには時間がかかりそうだが何とか――」 「おじさんみ~~~っけ!!」  不意に上空から無邪気な声。  二人が頭上を見上げると、ふわふわと白いものが降りてきている。  それが日傘を差した『金蛇の君』だと気付くのに、そう時間はかからなかった。  『黒獅子姫』はダグボルトの耳に口を近づけて囁く。 「わしの蟻の半分で梯子を作るからそれで逃げるのじゃ! 残りの蟻で『金蛇の君』を足止めしておいてやる。おぬしの砂糖菓子のおかげで、少しだけ魔力を回復出来たから、今ならそのくらいはできるはずじゃ」  しかしダグボルトは『黒獅子姫』の言葉を無視してこう言った。 「……もし今ここでお前を鎖から解放できたら、あいつを倒せるか?」 「えっ? 今のわしでも『偽りの魔女』一人ぐらいなら倒せると思うが……」 「それを聞いて安心した」  ダグボルトはスレッジハンマーを構え、『金蛇の君』を待ち構える体勢を取った。右目が悲壮な決意に輝いている。 「何をしとる!? ここで死ぬ気か!?」 「たとえ逃げられたとしても、ここに戻ってきた時には、お前は別の場所に移されているかもしれない。魔女どもを倒すには、お前の力が必要なんだ。お前だけは今ここで絶対に助ける」  『金蛇の君』は優雅に着地する。  地面の砂に跡も残さないほど優雅に。  覚悟を決めていても、魔女への恐怖に押し潰されそうになるダグボルト。  顔の火傷を何度も指でなぞり、必死に心を静めようとする。 「お姉さま、こんばんは」  『金蛇の君』は『黒獅子姫』を見て、ドレスの裾を指でつまんで開き、優雅にお辞儀した。  そして今度はダグボルトに視線を向ける。 「あなたとかくれんぼするの、飽きちゃった。眠くなっちゃったし、あなたとはバイバイするわ。えいきゅうにね」  『金蛇の君』はけだるげにあくびをする。ツインテールの髪が巨大な金色の大蛇に変わり、シュウシュウと威嚇音を立てる。 「……だったら、かくれんぼは止めて別の遊びをしよう」  ダグボルトは恐怖を押し殺し、噛み締めるように言葉を発する。 「えっ? なになに? こんどはなにをして遊ぶの?」  『金蛇の君』の顔がパッと輝く。  それを見てダグボルトは、自分の作戦に間違いが無い事を確信する。 (今までの行動を見る限り、こいつは強大な力を持っているが、思考は子供そのものだ。そこにつけいる余地がある。さてここからが正念場だ。こいつの幼い心理をうまく利用して、こっちが望む形に誘導するんだ。それも機嫌を損ねないように慎重に……)  突然、ダグボルトは道化のように、スレッジハンマーをめちゃめちゃに振り回して見せる。そしてポカンとする『金蛇の君』にこう言った。 「チャンバラ遊びなんかどうだ? 俺の武器はこのハンマーだ。『金蛇の君』、お前の武器はなんだ?」 「じゃあ『金蛇の君』はこのかたな!」  『金蛇の君』は釣られるように答える。『金蛇の君』が日傘の柄を引き抜くと、小さな隠し刀が現れる。魔力を帯びた刀身が淡く輝く。 「じゃあ勝負だ。動けなくなったり、『降参』と言ったら負けだ。いいな」 「ええ、いいわ!」  ダグボルトが戦いの構えをとると、『金蛇の君』も右手で刀を構える。左手には傘布の部分を持ち、盾代わりにしている。  『金蛇の君』を守るように髪の大蛇がとぐろを巻いた。  それを見てダグボルトは構えていたスレッジハンマーを下ろす。 「待った。その蛇は使ったら駄目だ。あくまで自分の武器だけで勝負するんだ。正々堂々とな」 「え~~~っ! つまんな~~い!」  『金蛇の君』は露骨に不機嫌な顔をする。それを見たダグボルトは慌ててなだめようとする。 「これはルールなんだ。ルールを守った方が遊びは面白くなる。『金蛇の君』はお利口だから分かるよな?」 「…………」  『金蛇の君』は不機嫌な顔のまま頷いた。渋々と双頭の大蛇をツインテールの髪に戻す。  ダグボルトは心の中でホッと胸を撫でおろす。 (作戦の第一段階はうまくいった。後は実力勝負だ。一撃でいい。一撃さえ与えられればこっちの勝ちだ)  はたから見れば他愛のない遊び。  しかし今のダグボルトにとって、これは命がけの遊びなのだ。
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