泳ぎたいって君が言うのなら。

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泳ぎたいって君が言うのなら。

……泳ぎたい。 私はいつだってそう考えていた。 授業中だって登下校の最中だって。 苦しい毎日の中、部活と水泳の授業だけは息ができた。 私の頭の中はあの学校のプールでいっぱいだった。 薄水色に反射する溢れんばかりに張られた水。 キラキラと輝く水面に恐る恐る片足を下ろす。 水の冷たさがつま先から這い上がってきて膝がキンと冷える。 もう片方の足をそっと入れて、背中まで登ってきた寒気をそのままに 後ろに手をつき、プールサイドに出来るだけ浅く腰掛ける。 素早く半回転して腕の力だけでプールに浮く。 そっと腕を曲げ、底に足をつける。 いつも難無くできたその作業。 今は……出来ない。 私は左肘に巻かれたサポーターを見つめた。 「これ『肘MCL』だね。それも障害性」 医者に言われた言葉が頭の中で反芻される。 エムシーエル……? 「スポーツとかやってる?」 「あ、水泳を。」 「うーん……水泳か。」 医者は少し考え込んで何かをパソコンに打ち込んでいる。 水泳。口の中でもう一度気づかれないように小さく呟く。 お願いだから。私から水泳を奪わないでくれ。 ただ、そんな願いも虚しいことは今も尚ズキズキと響く腕の痛みで解っていた。 私は一つ息を吐いた。苦しい時の神頼み……か。 「2、3週間はサポーター付きだから。」 そう言った医者に問いかける。 「水泳は……」 「もちろん無理だね。MCLって重症になると他の部位にも危害が及ぶようになったりもするんだよ?」 「はぁ。そうなんですか。」 どうにか声に出した相槌は思っていたより間抜けな声だった。 医者の言ったその国際連合みたいな病名は診断書に『内側側副靭帯損傷』なんて文字化けみたいに書いてあって、MCLでピンと来なかった私に、重病だと押し付けるような威圧感があった。 ーーーーーーーーーーーーーーー 息が……吸えない。 左肘についたサポーターが腕だけじゃなく体にまで巻きついてくるようで、私は酸素の少ない金魚みたいに口をパクパクさせた。 2、3週間の辛抱だ、そう心を落ち着けるものの息苦しさは何も変わりやしない。 授業中、目を刺すような光が溢れる窓の外を眺めながらこのままこの光に溶けてしまいたい、と思う。 布団に寝そべるように暖かな光にまみれていつの間にか消えてしまいたい。 ただ、こんな私の思いが叶うはずもない。 そう。明日も、明後日も私が光に溶けることはない。 影が伸びていき、私はふと視線をあげる。 そこで私はハッと目を見開いた。視界が……青い。 ポカンと開けた私の口からコポコポと気泡が出て行く。 生徒や教師は時間が止まったかのようにピクリとも動かない。 教室内に水が張っていると気づいたのは少し経ってからだった。 私はそっと腰掛けていた椅子から体重を浮かした。 水特有の重さが肩にかかり、足で床を少し蹴る。 ピクリとも動かないクラスメイトの間を弱いばた足で水を蹴りながら進む。 生徒達の顔は寝顔のようで、目を瞑り優しそうな顔をしている。 ふと、一人のクラスメイトの顔を見つめる。 『この人の名前……なんだっけ。』 私と同じ列だから、は行なのは解るけど……。 しばらくそこに留まっていたが、私は横に一回転するとそこから離れた。 まぁ、いいや。私の口元に笑みが浮かぶ。 酸素を吸っていないのに関わらず、私は息苦しくはなかった。 逆に心の中では 『やっと息が吸えた』 という思いだけが膨らんでいった。 ずっとこのままでいい。 なんならここで一生を終えてもいい。 そのぐらい楽しかった。満たされていた。 それなのに…… 「……ら。穂村(ホムラ)さん。」 誰かの声が聞こえた気がした。 やめて。私の邪魔をしないで。 教室からボコボコと水が出て行き、私は息苦しくなる。 クスクスと笑う声が聞こえてきた。 「穂村さん。起きてください。」 ハッとして顔を上げた。 先生の派手な色のワンピースが見えて目線を上にあげる。 パンジーの柄の色合いがまるでさつま芋のようだなぁ、なんて考える私とは裏腹に、先生からは鬼のようなオーラが漂ってくる。 真顔の先生と目が合った。 「え、あ!すみません!寝不足で……」 半笑いでそう言う。これが怒られにくいの回答……のはず。 周りは俺も、私もなどの同意の声で溢れる。 何があっても、息が吸えないなんて言ってはならない。 これ以上『変人』なんてレッテルを貼られるわけにはいかないのだから。 「早く寝なさいよ。」 「はーい……。」 そう言う先生に笑顔で返し、また頬杖をついて空を見る。 私の心はやはりあの「夢」に惹かれていた。 ーーーーーーーーー 下校時刻になってクラスがざわざわとした雰囲気に包まれる。 「さようならーっ。」 声が教室のざわつきにかき消される。 少し私は肩を落とし、教室のドアをくぐる。 「一緒に帰ろー?」 「オッケー。」 さっきの夢に出てきた名前の解らないクラスメートが他クラスの生徒に連れて行かれている。 そうか。夢……。 ……夢かぁ。 校門をくぐり、うわの空で電車に乗る。 段々と厚くなり、灰色に変わる雲を意味もなく横目で眺めた。 次々と同じ制服を着た人達が消えていく。 一つ息をついて重たいリュックを背負って座席から立ち上がった。 リュックは先程よりいくらか重くなっているように感じる。 エスカレーターに乗り、渇いた喉を潤そうと水筒に口をつけた。 異様に冷たい麦茶が内臓を冷やしながら伝っていく。 前の同じ学校の生徒がバスに乗って行ったのが水筒で半分隠された視界の中、微かに見えた。 一人になった夕暮れの道。 事故防止の為に作られたカーブミラーが夕日を反射してオレンジ色の光を辺りに撒き散らしている。 「てかあんなん夢じゃなかったらやばいじゃん。」 小さな言葉が口からこぼれた。 「ばっかみたい」 そうやって一人で笑う。微笑みが吐息に変わる。 反射した光が一筋、目に入った。 私の目からはいつの間にか涙が出ていた。 どこかの青春物語みたいに『なんで泣いてるんだろう』なんて思わなかった。 ただ、涙が溢れて止まらなかった。 『私は別に水泳なんて好きではないんだ。』 頭に今まで視界に入れないようにしてきた心の声が響き渡った。 『私が泣いているのは水泳が出来ないからじゃない。』 「違う…!やめて……」 小さな声で何度も呟く。ただ、心の声は止まらない。 『私は水泳というただ一つの個性が消えてしまうのが怖いんだ。』 「そんなわけ…ない…」 息絶え絶えにそう反論する私を通りすがった男性がめんどくさい物を見るような目で通り過ぎていった。 震えと涙が止まらない。 ガクリと足から力が抜けて膝から地面に倒れ込んだ…はずだった。 両肩に冷たい手が触れ、瞬時に羽交い締めに変わる。 グッタリと垂れた首をそのままに足元を見ると、私の膝は地面スレスレのところで浮いている。 立とうとするも、足に力が入らない。 「あっぶねぇな」 ゆっくりと顔を上げるとそこには同部活の杉田がこちらを見つめていた。 どうしてここに、そう言おうとしたが口は動かない。 喉が、渇いていた。 『さっき、麦茶飲んだのになぁ』 思った言葉は吐息となって地面に落ち、それに釣られるように私の顔もまた下を向く。 そのまま私の記憶は途切れ、真っ黒な視界としばしの静寂が訪れた。 「おまっ…熱あるじゃねぇか!」 そんな声が聞こえたような、聞こえなかったような。
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