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「じゃあ、仕事行ってくるから。」
今日もお母さんは、薄汚れた前掛けとバスケットを持って、朝早くから姿を消した。
あぁ また今日もやられるんだろうな・・・食い散らかされた6枚の皿を憂鬱に運びながらも、僕は訪れを待っていた。
トン トン
その時は 程なくしてやってきた。
「お母さんだよ。財布を忘れたの。ドアを開けてちょうだい。」
・・・!!!
僕は皿を放り出しすと、テレビの前にたむろする兄達を押しのける形でドアに向かった。
「は?何?」「おい踏んだしふざけんなっ」
そんな声も、今日限りで聞かなくて済むんだ!!そう思うと、心がこれまで以上に晴れ渡って優越感に満たされているようだった。
僕は ドアを開けた。
大きかった。
やっぱり僕の体と比べて大きいや・・・そうやって悠長に考えている時間を与えられないくらい、真っ黒なシルエットは僕を押しのけていった。ほぼ同時に、耳をつんざく断末魔のような叫びが家中に響き渡り、僕はそばの柱時計に飛び込んだ。
ドタンっ バタンっ ガッシャン・・・
柱時計の窓に背を向けて、身を屈める。喧騒は、最初こそ鼓膜を破く うっとおしさだったが、徐々に音が無くなっていくのを感じて、これまで自分に溜まっていたものが一気に浄化されていく気がした。
大きな大きなシルエットは、やがて柱時計の窓にぼんやりと映った。
「出ろ」
「・・・・・・!?」
恐る恐る扉を開けて、あぁ やっぱりこれは夢じゃないんだと思った。
荒い息を整えた狼は、うごめく腹部といっしょに視線を合わせてきた。
「怖いか?」
「・・・・・・」
「これがお前の望んだことだ。」
「・・・・・・・・・」
「あたしはもうじき殺される。ここからはお前に任せるよ。」
「・・・・・・・・・・・・・・」
声が出なかった。
「おめでとう」
狼は、腹を抱えながら出ていった。
バラバラだった。テーブルも椅子もカーテンも 全てがバラバラになって壊れた世界が、僕の目の前に広がっている。柱時計に力なく座り込みながら、僕はポカンと空いた心でその光景を目に焼き付ける。
邪魔者はいなくなった。
もうこれで僕は傷つかない。
これが僕の望んだことなんだ・・・
歪んだ呪文を心の中で繰り返しながら、規則正しい振り子運動に耳を傾けると、いつの間にか瞼は落ちた。
「キャーーー!!!」
重たい瞼を開ける。
真っ白な体。柱時計の裏からでも、すぐに分かった。崩れ落ちた部屋の中を走り回っている。憎い兄姉の名前を呼んでいる。それは、毎晩のやつれた声でも、酒癖のついた声でもない。
『お願い!子どもには手を出さないで!』
あの日、僕を胸に抱いたまま、母は叫んでいた。拳銃を担いだ大きな人間は、真っ黒な袋を引きずって去っていく。
何が起こったのかは分からない。
・・・でも、あの日と同じ声。
「—--—!!!」
その声は、最後に僕を呼んだ。久しく呼ばれていなかった、その名前を呼んだ。
憎い。
兄姉と等しく憎いはずの相手だ。
今更呼んだのだ。僕の名前を。
「お母さんっっ!!」
ガシャン 柱時計の扉ごと、体が倒れこんだ。
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