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『つぶみ』という僕たちの共通用語が生まれたのは、仕事終わりに二人で回転寿司に行った時のことだ。
就職したての二十代前半のころで、打ち上げと言っては二人で食事をして帰っていた。
就職先は別々だったけれど、慣れない仕事に苦戦している状況は一緒で、それはお互いにうっぷんを晴らすための時間でもあった。
その日もカウンターに並んで仕事の愚痴なんかを言いながら寿司を食べていると、流れていくレーンを眺めていた頼子が急に笑いだした。
「くくくっ……」
「何だよ、気持ち悪いなあ」
訝しげに見る僕に頼子が言う。
「『つぶみ』って何かと思ったらさ、よく見たらただの『つぶ貝』だった」
「はあ?」
レーンを見ると、つぶ貝の前に品札が一緒に流れていて、寿司屋らしい字体で『つぶ貝』と書かれている。
あまりに達筆なので、言われてみれば『つぶ見』とも読めなくもない。
「何だよ、ただの読み間違いじゃん」
「そうなんだけどさ、くくくっ……」
また頼子が笑い出す。こうなるともう、放っておくしかない。頼子の妄想タイムだ。
「『つぶ見』ってさ、『よそ見』とか『チラ見』とかの仲間なのかなあ?」
「はあ? 何だよ、それ」
こんな時の頼子の言うことは、僕にはわけがわからない。
「ひろくん、やってみて、つぶ見」
「はあ? どうやんの?」
「それは考えてよ。つぶらな瞳で見るとか?」
「やだなあ、もう……」
僕は正解のない問題を出されて戸惑いながらも、しぶしぶ目と口をすぼめてシワを寄せたような顔を作る。
「あははっ、いいじゃんそれ、つぶ見」
頼子は僕の『つぶ見』が気に入ったようだ。
「じゃあさ、今度は私がやるから、ひろくん『チラ見』と『よそ見』と『つぶ見』、ランダムに出してみて」
また頼子が変なことを言う。もう、さっきから一皿も寿司を食べていない。
でも、頼子にとっては今は寿司よりも『つぶみ』の方が大事なことなんだ。僕は素直に従う。
「チラ見」
僕が言うと、頼子は横目でチラッと僕を見る。
「よそ見」
僕が言うと、頼子はぷいっと顔を背ける。
「つぶ見」
僕が言うと、頼子はさっき僕がやったように目と口をすぼめた変な顔を作った。
「つぶみ チラ見 つぶみ よそ見 チラ見」
「あ、間違えた」
どんどん表情を変えていく頼子が『つぶ見』の顔で停止して、僕は思わず吹き出した。
「何なんだよ、『つぶ見』って」
「何なんだろうね、『つぶ見』」
結局その日は『つぶ貝』のお皿が回ってくる度に爆笑する羽目になって、店員に『チラ見』されながら店を後にした。
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