四、箱根旅行で大舞台

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四、箱根旅行で大舞台

 数日後の週末。亜仁衣には、とっておきの気分転換が待ちうけていた。それは、ずっと前から予定していたキースとの箱根旅行だ。偽藤井のおかげで頭が混乱しつくしていた亜仁衣にとって、この旅程は最高のタイミングだった。  その上、幸運なことに当日は素晴らしく天気が良かった。亜仁衣は芦ノ湖の湖畔を歩きながら「気持ちいい~」と天に向けて両腕を伸ばした。キースは、隣りでそれをニコニコと見ている。  キースは、巷では恥とされている芸能人型アンドロイドだ。だから、やっぱり旅先でも、ふたりを見てニヤニヤする者たちはまばらにいる。  でも、旅の恥はかき捨てって言う。自分たちも羽を伸ばしているから、他人のことをそう気にする人はいない。おかげで亜仁衣とキースは、いつものデート先よりものびのびと過ごすことができた。  さて、始めのお目当ては箱根神社だ。芦ノ湖湖畔の赤い鳥居をくぐり抜け、長い石階段を上ると御本殿がある。神様というものを結構信じている亜仁衣は、有名な箱根神社への参拝を楽しみにしていた。  けれど、長い石階段を上りきったところでアクシデントは起きた。本殿前に、〝謎の人だかり〟が発生していたのだ。人だかりはかなり密度が高く、とてもじゃないけれど本殿に近づくことはできない。 「何これ~!」  亜仁衣は、小さな背を懸命に伸ばして、人だかりの向こうを覗き見た。けれど、人以外には何も見えない。それは、長身のキースをもってしても同じことだった。周囲の人に聞いてみても、皆、この人だかりの正体はわからないと言う。  しばらく待っても、人だかりは引く気配にない。ふたりは仕方なく、別の名所から回ることにした。  次に、ふたりが向かったのは火山ガスで有名な大涌谷だ。ここでは、名物の黒たまごを食べようとふたりは計画していた。けれど、ここでもまた、〝謎の人だかり〟が発生していたのだ。それに売店が飲まれていたものだから、亜仁衣はお目当ての黒たまごを買うことができなかった。  またぞろ、諦めたふたりは、次は予定になかった箱根関所に行ってみた。けれど、今度は入口付近に〝謎の人だかり〟が発生していて、中に入ることすらできない。  あちこち動き回ったのにも関わらず何もできないから、さすがに亜仁衣は機嫌が悪くなってきた。 「今日の箱根、一体どうなってんの?」  亜仁衣は、何度も箱根に来たことがある。けれど、こんなことは始めてだ。それどころか、どの旅先でもない。 「絶対に混んでない場所ってないかなぁ」  亜仁衣がそうぼやくと、キースは「あるよ」と芦ノ湖のほうを見やった。芦ノ湖には遊覧船が二隻浮いている。  ふたりは、芦ノ湖を運航する海賊船型の遊覧船に乗ることにした。乗船人数をコントロールしている遊覧船ならば、絶対に乗れるだろうとキースが踏んだからだ。実際、ふたりは、すんなりと遊覧船に乗ることができた。 「もう、どうなってるの~」  亜仁衣は、船内の長椅子に腰を掛けるとぱたっと横に倒れた。 「疲れた……。もう動けない……」  目の前の窓からは芦ノ湖の景色が良く見える。一方、キースは涼しげな顔だ。 「キースは、やっぱり疲れないの?」 「勿論。疲れてないよ」 「いいなぁ。私もアンドロイドになりたい。人間の十倍の能力が欲しいよぉ」  そこまで言うと亜仁衣は思い出してしまった。例のクローンのことを。そして思わず口に出した。 「クローンも……、人間と同じように疲れるのかな」  キースは少し困ったような顔をして、 「……藤井さんのこと?」 と言ったから亜仁衣は慌てて、 「あ、いや……、そういう訳じゃないけど……」 と言ってから黙り込んだ。  ふたりは、しばし押し黙った。その間、芦ノ湖の景色だけが目の前の窓を流れていく。  偽藤井による自宅襲来事件のあと、亜仁衣はあることを思い出した。それは、この日本の黒い噂――芸能人にはひとりにつき一体のクローンが存在しているという噂――だ。  インターネットワーク網上を調べてみると、実際、信憑性の高い情報があちこちに存在している。その情報はというと、芸能人クローンは闇社会で荒稼ぎするために作られただの、金持ちが道楽で作っただの、研究所の試作クローンが逃げ出しただのである。  中でも、その試作クローンというのは中途半端な存在で、本物の人間に比べ様々な機能が欠落しているという。あの偽藤井は、その研究所から逃げ出してきた試作クローンなんじゃないか。亜仁衣はそう思い至った。  それをキースに話したところ「あながち間違いじゃないかもしれない」と答えた。結果、ふたりの間では、あの偽藤井はおおよそ試作クローン人間となってしまったのである。  機能が欠落しているという部分に、キースも共感したのかもしれない。亜仁衣はそう思った。 「だって、羞恥心が欠落してる……」 「え?」 「あ、なんでもない」  慌てて亜仁衣は答えた。それからまた、ふたりは無言になってしまった。  あの偽藤井の自宅襲来事件があってから、亜仁衣はずっと半狂乱状態だった。そこを、偽藤井クローン説を思いついて、やっとのことで落ち着いたのだ。けれど、それでもやっぱり偽藤井の話となると、亜仁衣は興奮しておかしくなってくる。  だから、キースは亜仁衣のために、しばらくはあの藤井さんの話はやめようと取り決めてくれたのだった。だというのに、亜仁衣は、思わずあの羞恥心が欠落した男のことを話に出してしまった。 「そうだ」キースが口火を切った。「上のデッキに行こうよ。たぶん風が気持ちいいよ」  それを聞いて、亜仁衣はなんだか楽しい気分になって、笑顔で「うん」と答えた。  けれど、ここでも亜仁衣はゲンナリすることになった。なんと、デッキの上にも、例の〝謎の人だかり〟が発生していたのだ。  それも、デッキの先端という一番眺めの良い場所だ。亜仁衣は、ふぅっとため息をついた。 「まただよ~。わけわかんない」  亜仁衣が疲れきった顔をしていると、キースはすぐに、 「こっちで見ようよ」 と亜仁衣の手を取って、人の少ない船尾に連れて行った。  亜仁衣は遊覧船の手すりにつかまって、少し身を乗り出した。風が亜仁衣の頬をなでる。 「気持ちいい……」  亜仁衣がつぶやくと、キースは船外に向けて腕をピンと伸ばした。それを、亜仁衣がはてな顔で見ていると、どこからともなくカモメが現われた。 「わぁっ!」  突然、目の前に現われたカモメに亜仁衣が面食らっていると、カモメは船のスピードに上手く合わせて遊覧船に併走した。そして、やがて上手にキースの腕にとまった。亜仁衣は目を見開いた。 「何これ! キース、凄い……!」  一連の流れは、まるでキースがカモメを呼び寄せたかのようだ。けれど、次の瞬間キースは握った手を開くと、カモメは手の平の上の何かをついばんだ。どうやら、キースはカモメを引き寄せるために、エサを隠して持っていたようだ。 「なんだ~」と、亜仁衣はくすくす笑い出した。  カモメは目当てのエサを食べ終わると、また空に向かって飛んでいってしまった。  亜仁衣は、笑いが収まらないうちに言った。 「何やってんの。こういうところって、エサやり禁止じゃなかったっけ」 「うん。確かにダメだね」 「キースってそんな人だったの⁉」  亜仁衣がそう言うと、キースはチョロっと舌を出した。おかげで、亜仁衣は今度はお腹をかかえ、あはあはと笑い出した。それを見てキースは嬉しそうに笑った。 「良かった。やっと笑ってくれた」 「え?」  そう言われて亜仁衣はやっと気がついた。この旅で自分が全然笑っていなかったことに。  そうだ。せっかく旅に来たんだから、人ごみがあってもなんでも楽しまないと。だからこそ、もうあの偽藤井のことを考えるのはやめよう。亜仁衣はそう決心した。そうしたら、なんだか芦ノ湖の風が、さっきよりも気持ち良く感じられた。  そんなとき、後ろのほうで気になる会話が聞こえてきた。 「やっぱ、藤井貴伊守かっこいいよね~」 「う~ん。最高! でも、いいのかなアレって……」 「いいんじゃない? ハハハ」  若い女の子の声だ。亜仁衣はキースのことを言ってるのだと思って、声のするほうを振り返ってみた。けれど、女の子たちが見ているのはデッキ先端の人だかりだ。  その人だかりは、さっきよりもまばらになってきた。だから、その中心に何かがいるのは、チラチラと見える。でもハッキリとは見えない。  まさかまさか。あの中に本物の藤井貴伊守がいる――? 亜仁衣はそう思って、人だかりの中に向かって行った。「亜仁衣?」とキースが付いていくと、「あれ? こっちにも藤井貴伊守?」と若い女の子に言われたから、キースは首をかしげた。  果たして、亜仁衣が人だかりの中心にたどり着くと、そこには藤井貴伊守がいた。藤井貴伊守はこの海賊船型遊覧船に合わせてか、海賊の扮装をしている。そして、隣りには観光客らしい家族連れがいた。  本物――?  一瞬、亜仁衣はそう思った。けれど、すぐにそれが間違いだと気がついた。 「はい、撮りますよ~」  奇襲型カメラマンは、そう言うとシャッターを切った。 「はい、ありがとうございます。1枚2000円です」  チャリーンと電子決済音がした。家族連れが奇襲型カメラマンにお金を払ったのだろう。 「どうも、ありがとう~」  そう言いながら、藤井貴伊守の見た目の男が笑顔で手を振ったから、家族連れの子供はそれに小さな手で返した。  海賊姿の藤井貴伊守が、観光客と一緒に写真を撮ってくれるサービス。亜仁衣の目の前では、そんな商売が行われていた。  藤井貴伊守本人が、こんなことをするわけがない。もしかしてアンドロイド――? 一瞬、亜仁衣はそう思った。けれど、人型アンドロイドに労働をさせるのは違法だ。果たして、こんなに大っぴらに犯罪をおかすだろうか。でも、これがもしクローンだったとしたら――。そう思った瞬間、亜仁衣に悪寒が走った。  悪寒が走るやいなや、海賊姿の藤井貴伊守の見た目の男は「あー!」と大きな声を上げて、亜仁衣のほうを指差した。そして、写真撮影中だというのに、その場を離れて亜仁衣のほうへやってきた。  走り寄ってくる海賊姿の藤井貴伊守の見た目の男は、夏の太陽光と相まってキラキラと輝いて見えた。亜仁衣は、不覚にも一瞬トキめいてしまった。  しかし、奇襲型カメラマンの照射する『migirei(ミギレイ)』の補正照射範囲を越えると、男の姿は一瞬であの黒尽くめの偽藤井に変身した。残念ながら、またもやフケだらけだ。それに、以前よりも痩せこけて、目の下にクマができている。 「ぎゃ!」  亜仁衣は変な声を上げてしまった。この男は、やっぱりあの偽藤井だ。 「なんであんたがいるの! ストーカー!」  偽藤井は鼻で笑った。 「何を言ってる。先に俺がここにいたんだから、言ってみればおまえのほうがストーカーだろう。それとも、おまえは自分のことでも言ってるのか?」 「は? そんなこと言って、たまたま私たちの行く先にいるなんて、おかしいでしょ。あ! ひょっとして、あんた、箱根神社と大涌谷と、あと関所にもいなかった⁉」  偽藤井は、わざとらしく脳裏の記憶を探るような顔をした。 「あ~、いたねえ。って、おまえどれだけ俺のことを追いかけてんだよ。いやあ、これは面倒くさいファンがついたなぁ」 「はぁ⁉」  どうやら、あの観光地めぐりをことごとく邪魔していた人だかりは、この偽藤井が作ったもののようだ。それに気がついたら、亜仁衣は段々腹が立ってきた。  ふたりが問答していると、奇襲型カメラマンがやってきた。 「ちょっと困りますよ。途中で抜けられたら」  でも、キースの姿を認めると「あ!」と指差し、そして亜仁衣に近づき耳打ちをした。 「あなたたち、この黒尽くめさんのお仲間でしょう?」 とカメラマンは手で偽藤井を指し示した。 「この人、アンドロイドの仲間とはぐれたっていうから、仲間と再会するまでの間、旅路の資金を稼ぎたいって、私に頼んできたんですよ」 「……アンドロイド仲間?」 「でも、こうやって再び会えた。いやあ良かった。勿論、アンドロイドが労働するのは違法なので、お客さんには内緒ですけどね」  亜仁衣は苦笑いした。 「いや……、たぶん、誰も本物だとは思ってないと思いますけど……」 「だからこそです!」カメラマンは人差し指を立てた。「早く稼いで逃げなければ!」 「はぁ……」 「今、この黒尽くめの方とお話されたいのならば、こちらの藤井さん型アンドロイドをお貸しいただけますか? お礼ははずみますよ」  そう言うと奇襲型カメラマンは、勝手にキースの腕を引っ張り、「あ!」と言う亜仁衣を無視して、撮影スペースに連れて行ってしまった。  そして、『migirei(ミギレイ)』の照射範囲に入ると、今度はキースが海賊姿になった。それを見た撮影客は、嬉しそうな顔をしてすぐキースに近寄ってきた。  そのとき、亜仁衣は奇襲型カメラマンのせいで、一瞬、忘れていた偽藤井の存在を思い出した。亜仁衣は偽藤井をジロリと見た。 「――で。アンドロイド仲間って何?」  偽藤井は「さあ」としらばっくれた。  亜仁衣は、引き続き鋭い目で偽藤井を睨みつけると、何かに気がついたようにすかさず超小型デバイスから目の前の空間に映像出力をした。  その空間画面には、大きく『knock(ノツク)』と記されている。『knock(ノツク)』とは、インターネットユーザーがお互いに質疑応答する有名サービススペースだ。  その質疑応答による情報交換は、あまりにも素早く、そして情報が正確であることから、ストーカー製造所として社会問題になっている。  『knock(ノツク)』の画面を裏から見た偽藤井は、気まずそうな顔をして目をそらした。画面を見ていた亜仁衣の顔は、どんどん険しくなっていく。 「やっぱり……」  『knock(ノツク)』の最新質問は、同じ内容で埋め尽くされていた。それは、藤井貴伊守型アンドロイドとチビ女の行方を求める内容だ。質問の答えを見ると、  箱根なう――。  箱根神社に向かった――。  大涌谷に行くようだ――。  たぶん次は関所に行く予感――。  遊覧船に乗るくさい――。 といった内容だ。  亜仁衣は怒りでわなわなと震えた。そして、 「なぜ、付きまとう!」 と空間に出力した映像画面を、偽藤井に向けてバッと拡大した。  画面がまぶしかった偽藤井は、「うっ!」と自分の目の前に手をかざした。 「し、仕方ないだろう……!」 「何が!」  ふたりのやりとりを見た周囲は、くすくす笑っている。アンドロイドと所有者が喧嘩しているとでも思ったのだろう。  偽藤井は、亜仁衣に近づいて耳打ちした。 「おまえらと一緒にいると、こんな感じで俺はアンドロイドだと思われる。だから気が楽なんだよ。おかげでマスコミにも追いかけられないで済む。俺は今、マスコミのおかげで家にも帰れない。だから、このざまだ」  そう言うと、両手を広げて自分の見てくれを亜仁衣にアピールした。確かに、偽藤井の見てくれは、以前よりも一層、薄汚れて見えた。  亜仁衣は、自分の大好きな藤井貴伊守の見た目の男が、たとえ偽者だとしても、こんな見てくれになってしまっていることに頭痛を覚えた。そして、なんだか泣きそうな気分になってきてしまった。 「もう勘弁してよ……」  そうつぶやくと、偽藤井はそれが聞こえたからかなんなのか、突然、亜仁衣を見つめる目がうつろになった。そして、しばらく無言になってから「おい……」とつぶやいた。 「何よ」  亜仁衣は口を尖らせて偽藤井をにらみつけた。偽藤井はフッと笑った。 「俺のことが好きだからって、そんなにジロジロ見るなよ……。俺は見られ慣れてる。だからといって俺の見た目はタダじゃない――」  そう言うやいなや、偽藤井は凄い音を立ててデッキにぶち倒れた。  周囲に悲鳴が上がった。 「うそ……ちょ……、ちょっと……!」  亜仁衣は、慌ててしゃがみこむと偽藤井の顔を覗き込んだ。  デッキに倒れた偽藤井は、完全に意識を失っていた。 「あ~、マジで美味い!」  偽藤井は、旅館の一室で御膳にがっついていた。その隣りにはキース、向かいには亜仁衣がいる。三人のお膳には、豪華な食事が乗せられていた。しかし、今それを食べているのは偽藤井ひとりだ。  三人がいるのは、芦ノ湖湖畔にある旅館『kコonナanン』の一室。全面ガラス張りの窓から、芦ノ湖が眺望できる畳作りの部屋だ。  窓の外を見ると、日の落ちきっていない芦ノ湖の湖面に、ライトアップされた箱根神社の赤い鳥居が浮かび上がっている。  そんな素敵なロケーションで、不潔感ありありの偽藤井は明らかに浮きまくっていた。 「この数日間……、ろくに食ってなかったからさ……」  偽藤井は、口にものを入れたままひとりでしゃべっている。亜仁衣はというと、不満そうな顔でそれを見ていた。キースはただただ苦笑いだ。  昼間、遊覧船のデッキで偽藤井が倒れたあと、周囲に人だかりの輪ができた。偽藤井は、完全に意識を失っていた。  だから、仕方なく、怪力のキースをもってこの偽藤井を宿泊予定の旅館まで連れて来たのだ。勿論、アンドロイドの所有者である亜仁衣の指示で。  亜仁衣は、早くもそのことを後悔していた。 「なんで、この人、連れてきちゃったんだろう」  その言葉をうけた偽藤井は、ちょうど口に食べ物を詰め込みすぎてものを言えなかった。閉じた口でウーアーウーアー言いながら、何かものを言いたげに箸の先を亜仁衣に向け何回も指した。しばらくして、口の中のものを飲み込むと、 「そうそう。なんで、病院だとか警察に連れて行かなかったんだよ」 と言って、またすぐにご飯をかきこんだ。亜仁衣は渋々答えた。 「それは……、もしクローンだったらね、変な施設に閉じ込められて、それも可哀想だなぁと思ったから……」  偽藤井は首をかしげて、 「はぁ? 何言ってんのかわからない。けど、おかげで助かったわ。サンキュー」 と言って新しい肉を口に放り込んだ。偽藤井が素直にお礼を言ったもんだから、亜仁衣はなんだか調子が狂ってしまった。  まだ、肉を噛み切れてない偽藤井は「あ!」と、こもった声で言うと、 「そういえば、俺が倒れたあとカメラマンから金受け取った?」 と聞いてきたから、亜仁衣はため息をついた。 「そんなの断ったに決まってるじゃん。だって、アンドロイドの労働は違法でしょ? たぶんクローンも……」  すると偽藤井はいきり立った様子で、 「なんで受け取らなかったんだ! あー、ただ働きじゃねえかよ」 と言った。そしてすぐに、 「っていうか、俺はアンドロイドじゃねえ」 と、ふてくされた顔をした。  偽藤井は、相変わらず不潔感漂う浮浪人風情だ。亜仁衣は、本物の藤井貴伊守のイメージを破壊されることに、ほとほと、うんざりしてきた。だから、偽藤井から逃れるために、夕飯には手をつけず部屋の外に出ようとした。すると、キースが「亜仁衣?」と短い質問をしてきたから、亜仁衣は「お風呂に入ってくる」と答えた。  入浴時間が早すぎたのか、女性用大浴場には宿泊客がいなかった。今は亜仁衣専用の温泉浴場だ。  ガラス張りの大浴場からは芦ノ湖の風景が見渡せる。まだ日が暮れて浅いから、湖全体の様子は良く見えた。本当ならば素敵な風景だ。だというのに、今の亜仁衣の目にはまったく入ってこなかった。 (なんで、あいつのこと助けちゃったんだろう――)  亜仁衣は、外を眺めながらため息をついた。クローンだとしても、一応、藤井貴伊守の見た目の男だ。もし、変な研究所にでも連れ戻された挙句、酷い目に遭うのかと思ったら、なんだかやり切れない気分になってしまったのだ。  お風呂を出ると、亜仁衣は複雑な気分のままロビーで涼んでいた。  旅館の浴衣には、現代の『温度湿度調節機能』が付いていない。この機能がついた服を着ていれば、たとえ砂漠の中だとしても汗をかくことはない。それがついていないものだから、旅館の浴衣は夏の今、暑さを感じさせる。それも旅の風情だということらしい。正直、不快で嫌なのだけれど、亜仁衣はやっぱり気分優先で浴衣を着てしまった。  本当は、この浴衣にハンテンを着て、キースと一緒に芦ノ湖の湖畔を歩きたかった。でも、今は、あの偽藤井をひとり置いて出掛けるわけにもいかない。亜仁衣は、しょぼくれた顔で袖の端を掴むと、自分の浴衣を眺めた。  そこへ、聞き覚えのある声が聞こえてきた。 「インサイド高めの球を極めたら、最強だよな~」  亜仁衣には良くわからないけれど、たぶん野球の話だ。声のするほうを見ると浴衣姿の男たちが歩いている。キースと偽藤井だ。浴衣姿のふたりは、いつにも増してキラキラと輝いて見える。亜仁衣は、思わずドキリとしてしまった。他の宿泊客たちもふたりを見てザワつきだした。普段だって目立っているというのに、ふたりが肩を並べて浴衣姿だなんて反則だ。  どっちが偽藤井なのかすぐにわかった。偽藤井は、やっとお風呂に入ったのだろう。あの不潔感は一掃されていた。おかげで、ふたりの見た目はほとんど変わらない。  けれど、偽藤井からは、なんというか〝俺さまオーラ〟のようなものが出ている。おかげで、悲しいことにキースよりも一層輝いて見えた。  勿論、亜仁衣はそれが腹立たしい。キースだって癒し系で優しくって完璧な男だというのに。  ふたりが亜仁衣のそばまで来ると、偽藤井は、ふざけた調子で話しかけてきた。 「俺さまど~っちだ」  亜仁衣は「あんた」と、偽藤井の顔を指差した。 「あんた――ってことは俺のことか」  偽藤井は、がっかりしたような顔をして、 「なんだ、すぐに答えるなよ。つまらない」 と、だれた姿勢をした。 「キースは、俺さまなんて言わない。あと、顔つきを見れば、すぐにわかる」 「へえ~。俺たち、こんなに似てるのにな~」   そう言って、偽藤井はキースと肩を組んだ。キースはニコニコして、なんだか楽しそうだ。ふたりで温泉に入って仲良くでもなったのだろう。  結局のところ、亜仁衣の希望していた浴衣de湖畔散歩は叶えられた。けれど、偽藤井が一緒についてきたものだから、なんだか賑やかになって、亜仁衣が想像していたのとは違うものになってしまった。  三人が部屋に戻ると布団が三組敷かれていた。仲居ロボットが敷いてくれたのだろう。仲良く三組ピタリとくっついて並んでいる。偽藤井はそれを見るやいなや、勢い良く真ん中の布団にゴロリと寝ころんだ。 「あー! 久々の布団!」  そう言って、手足を大の字に広げると、三つの布団を占領した。  亜仁衣は「ちょっと!」と慌てると、手前の布団を引っ張って、偽藤井から二メートル近く引き離した。 「寝るときに近づかないでよ!」 「はぁ?」 「だって……! あんた、遊び人なんでしょ!」 「なんの話だ」 「言ったじゃない! 裸、見られ慣れてるって」  偽藤井は記憶を探った。そして、亜仁衣の家の風呂場でのことを思い出した。  ――いいや~。別に、慣れてるし。  亜仁衣に裸を見られたときに、偽藤井が言い放った言葉だ。 「あ~それか。それは撮影で良く脱いでたから。カメラマンやらマネージャーやらスタッフやらの前で脱ぐんだから、そりゃ裸なんか見られ慣れてる」 「あ~そういうことか……。って一瞬納得しちゃったじゃない! あんたは本物じゃないんだから。クローン! それも嘘つきクローン! どこの研究所から逃げ出してきたの? GIFU(ギフ)の? FUKUI(フクイ)?」 「はあ? 何言ってんだ、おまえ」  そう言ってから、偽藤井は思いついたようにニヤッとした。 「ところで、なんでおまえは俺に襲われるって思うんだ? 俺にも趣味ってものがある」  そう言ってしたり顔をしたから、亜仁衣は絶句して赤面した。ばつが悪くなった亜仁衣はため息をつくと、 「あ~あ。やっぱり警察に突き出してやれば良かったぁ。今からでもまだ遅くないよね~」 とやり返した。  今度は偽藤井が絶句した。しかし、しばらくして、ゴロリと亜仁衣に背を向けると、 「今日は疲れたからもう寝よ~」 と都合の悪いものに蓋をするかのように、寝たふりを始めた。  ふたりのやりとりを見て、キースはいつものごとく苦笑するしかなかった。  そうやって、偽藤井がやっと静かになってくれたから、亜仁衣は荷物の整理を始めた。始めるやいなや偽藤井から寝息が聞こえてきた。よっぽど疲れていたのだろう。偽藤井は、掛け布団の上で寝たふりのまま、本当に寝てしまった。  亜仁衣が偽藤井の顔を覗きこむと、その寝顔は少し可愛らしかった。人間静かになると可愛いものだ。亜仁衣は思わず、ふふっと笑ってしまった。 「起きてるときも、こんな感じならいいのにね」 とキースを見やると、椅子に座ったまま居眠りをしている。アンドロイドも、ちゃんと疲れて寝るのだ。  亜仁衣は慌てた。偽藤井が起きたときにキースが起きていなかったらなんだか怖いからだ。偽藤井は何をしでかすわからない男だ。初対面でいきなりキスをするような――。  亜仁衣は偽藤井が起きてしまわぬよう、そそくさと部屋を出た。    また温泉にでもつかろう。そう思って大浴場に来た瞬間、亜仁衣は気がついた。自分がまだ夕食を食べていないことに。  おかげでなんだかフラフラしてきた。その上、具合も悪い。  そのとき、丁度、休憩所に設置された体調監視マシンが目に入った。宿泊客が食中毒や急病になったときのために、大抵の宿泊施設にはこの体調監視システム『monita(モニタ)』が導入されている。比較的、先進的な宿泊施設の場合、更に宿泊客自身がこの体調監視マシンでその監視結果を出力することができる。それは、この旅館『konan(コナン)』においてもそうだ。  亜仁衣はマシンの前で自室の部屋番号を口にした。 「205」  すると、すぐにモニタリング結果が、空間画面として映像出力された。  ・21歳  ・女性  ・空腹状態   ・ストレス性の不調  これは亜仁衣のことだろう。亜仁衣は今までのモニタリング結果で、見たことがない言葉〝ストレス性の不調〟に目を凝らした。 「何これ?」  空腹状態はわかる。けれど、この〝ストレス性の不調〟とはなんだろう。偽藤井のせい? それしか思い当たるふしがない。続いて、  ・?歳  ・アンドロイド  ・エネルギー補充中  ・体調良好  これはキースのことだ。アンドロイドは年齢判定ができない。だから、このように表示されてしまう。  ここまで来て亜仁衣は気がついた。次は偽藤井の番。これであいつの正体がわかってしまうかもしれない――。  そして、表示された結果を見て亜仁衣は絶句した。  亜仁衣は、急いで205号室に戻ると、すぐにキースをたたき起こした。 「キース、見て!」 「え?」  亜仁衣は超小型デバイスから空間に映像出力をした。出力された画面には、さっきのモニタリング結果が映し出されている。  夢の中から戻ってきたばかりのキースは、頭を一生懸命に働かせてそれを見た。  ・28歳  ・男性  ・栄養失調  ・貧血  ・寝不足  ・睡眠中 「これは?」 「205号室の体調モニタリングの結果」 「205号室……」  キースは、しばらく思案してから、 「ここだ」と亜仁衣と目を見合わせた。  亜仁衣は恐こわ々ごわとした様子で、 「クローンって確か……」 と言うと、キースは「うん」と答えた。そして静かに目をつむると、しばらくしてから、だしぬけに語りだした。 「体調監視システムによる年齢判定は、生まれてから現在までの細胞分裂回数によって行われる。クローンはその生成過程で細胞分裂回数の序盤を飛ばしてしまう。ゆえに、クローンをこの体調監視システムにかけると、細胞分裂回数が極端に浅くなり、たとえ見た目が成人でも肉体的には幼児だと判定されてしまう」  キースは文章を読み上げるようにそう言った。こういうときのキースは、常用ではないマニアックな知識を、いつもとは違う記憶領域から取り出している。キースは目を開いた。 「そういうわけで、そこで寝ている藤井さんがもしクローンだったならば、このモニタリング結果は有り得ない……と思う」 「じゃあ、この人、正真正銘の人間?」  亜仁衣がそう言うと、ふたりは、無言で布団の上に寝ころがっている偽藤井を見つめた。偽藤井は気持ち良さそうに寝息を立てている。  夜も更けてきた。偽藤井に続き、疲れていた亜仁衣とキースも寝ることにした。偽藤井の寝る布団は部屋の端に、真ん中にキース、そして亜仁衣という並びだ。  よっぽど疲れていたのか、偽藤井はまだまだ起きる気配にない。しばらくして、キースも寝てしまった。でも、亜仁衣はまったく寝付けなかった。身体だけは静かに休んでいる亜仁衣だけれど、頭の中は大混乱中だ。  偽藤井は、不良アンドロイドでも研究所から逃げ出したクローンでもない。正真正銘の人間。でも、テレビに出ている藤井貴伊守とは別人。じゃあ偽藤井は何者?  もしかして、本物である偽藤井が何者かに命でも狙われていて、テレビには代わりに影武者が出ているとか? 破天荒なあいつなら有りえなくもない。だって、影武者の存在って、暗殺を避けるためのものだから。暗殺されそうな性格してる。  でも、ふざけた性格の偽藤井が実は本物だったなんて、亜仁衣はまだ信じたくなかった。今、亜仁衣を体調モニタリング判定したら、〝強いストレスによる絶不調〟と出るだろう。  亜仁衣がそう悶々としていると、部屋の中でガサゴソと音がする。隣りのキースに目をやると静かに寝ている。ということは偽藤井の音だ。偽藤井は「うーん」と声を立てて背伸びをすると、他のふたりに気遣いもせず、大きな足音で部屋を出て行った。  一体、どこに行くのだろうか。亜仁衣はキースを起こそうとした。でも、アンドロイドにも睡眠が必要だ。リモートでエネルギー源――電気――が供給されるのは、睡眠中だからだ。  キースには、翌朝以降、偽藤井の奇行から守って欲しい。だから、今は起こさずに、亜仁衣は自分ひとりで偽藤井を尾行することにした。  亜仁衣探偵は、偽藤井のあとを小走りで追いかけた。すると、大浴場前の休憩所で椅子に座る姿が見えたから、慌てて引き返した。  休憩所をそっと覗くと、偽藤井は何かを盛んにいじくっている。その手元を見ると、休憩室に試供品として置いてあった箱根組木細工の立体ダルマパズルだった。  偽藤井は、それをしばらくガチャガチャと触ったところで、元の位置に放り投げるように置いた。そして、ほんの少しその辺りをブラブラすると、小さく口笛を吹きながら自動階段のほうに向かった。  亜仁衣探偵はすかさず追いかけた。そのとき、目に入った休憩所の立体ダルマパズルは、まったく原型をとどめておらず、顔面崩壊、無残な姿をしていた。 (ダルマさん……合掌)  亜仁衣は、偽藤井に殺されたダルマのために祈りながら、その場を走り去った。  果たして、偽藤井は屋上にいた。亜仁衣は死角に身を潜めると偽藤井の様子を見守った。  偽藤井は、屋上の手すりに手をかけると夜空を見上げた。観光地の夜空は、星が輝いて良く見える。そのために、わざわざ街灯の設置を控えているからだ。おかげで観光地は〝夜は眠る街〟と言われている。  その〝夜は眠る街〟の中、偽藤井は起きくさっていた。真っ暗なはずなのに、月明かりのおかげで偽藤井の姿は良く見える。  早く寝すぎて目が覚めてしまったのだろう。さすがは傍若無人のマイペース男。亜仁衣がそう思った瞬間、偽藤井は両手を天に向けて広げた。  何をやっているのだろうか。まさかUFOでも呼ぶんじゃ……。ひょっとして偽藤井の正体は宇宙人⁉  偽藤井は、その格好のまま微動だにしない。亜仁衣は固唾を呑んだ。  しばらくすると、小さな歌声が聞こえてきた。亜仁衣は、その歌を知っていた。それは、亜仁衣がキースと暮らしだす前、高校生の頃に観に行った藤井貴伊守主演ミュージカルの一幕の歌だ。  さすがに真夜中だ。偽藤井をしても周囲に気を回したのだろう。その歌声は小さかった。でも、周りが静かなおかげで、それでも良く聞こえてくる。偽藤井の歌声は、気高さと暖かさの同居した心地のいいものだった。そして、その歌声が作り出す感情は、亜仁衣があのときに聞いた歌声そのものだった。 (あれ……?)  目の前の偽藤井のポーズは、頭の先から指の先まで、まさにあの舞台の藤井貴伊守のものだった。月明かりの下、ポーズをとった偽藤井はキラキラと輝いて見えた。 (やだ……)  偽藤井は、段々、あのとき舞台で着ていた衣装をまとっているように見えてきた。そして偽藤井の前に広がる夜空は、あのとき亜仁衣が見た舞台背景に良く似ていた。 (ダメ……!)  ダメ……。この人、本物の藤井貴伊守だ――。  亜仁衣は、キラキラと輝く証拠を前にそう確信してしまった。偽藤井は、四年前に亜仁衣がその目で見た藤井貴伊守本人そのものだった。  偽藤井は星空の下でまだ輝いていた。それを見ていた亜仁衣の頬には、ふいに涙がこぼれおちた。
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