七、四年目の亀裂

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七、四年目の亀裂

「今は、ペットが病気で……。だから、もうちょっと……待ってください!」  メールのあと、次に叙鞍に会った亜仁衣はとっさにそう言い放ってしまった。緊張した面持ちだった叙鞍は、安堵したような顔をした。 「そっか。なんだか大変なときにいろいろと誘ってしまったみたいで、ごめんね。今は、ペットに愛情を注いであげて。僕は待ってるから」  叙鞍は優しい笑顔でそう返した。おかげで亜仁衣は罪悪感で胸が痛くなった。  勿論のこと、亜仁衣にペットなんかいない。とっさに頭に浮かんだのは、足を怪我した藤井のことだった。それをついペットだと言い換えてしまったのだ。  本当は、返事はYESだって言いたかった。でも、亜仁衣は、まだキースに叙鞍のことをちゃんと話せていなかった。だから、もう少し待って欲しかったのだ。  家に帰ると、キースは夕飯の支度に取りかかっていた。藤井は、いつものようにソファで寝ている。  普段の亜仁衣はこの藤井を避けて自室にこもる。けれど、今日こそはキースに叙鞍のことを切り出したかった。  亜仁衣は、藤井が起きてこないかチラチラと確認しながら、キッチンのキースに近寄った。 「亜仁衣?」  キースが短い質問をしたから、亜仁衣は野菜の置かれたシンクを覗き込んで、 「今日は、何を作ってるのかな~って思って」 「多分、亜仁衣が好きなメニューかな? できてのお楽しみ」 「なんだろう。楽しみ」  そう言ってから、亜仁衣がまだ無言でキースの横に立っていたから、 「亜仁衣?」 とキースはまた短い質問をした。亜仁衣は慌てて、 「きょ、今日は、キースが料理するところを横で見てたいなぁ……。たまには……」 と取り繕った。 「うん……」  いつもとは違う亜仁衣にキースは一瞬戸惑いつつも、すぐにそれを受け入れて「いいよ」と笑顔で返した。  それから亜仁衣はキースの横について回って、本題――叙鞍の話――を切り出そうとした。  ――まずは、キースが野菜を刻んでいる間。 「あのさ……」 「何?」 「……なんでもない」  ――次は、じゃが芋の面取り中。 「実はね……」 「ん?」 「私、虫が苦手なんだ……」 「うん。知ってるよ」  ――また、その次はスープの灰汁とり中。 「話があるんだけど……!」 「何?」 「ええと……。お料理をロボット買えば、キースも楽になると思うんだけど……どう?」 「大丈夫だよ。今だって充分暇だから。ほら、僕も一応ロボットだし」 「そっか。は、ははは……」  ――と、こんなことを五回ばかり繰り返した。段々、亜仁衣は、自分の勇気の無さが情けなくなってきた。  そのときふと気がつくと、ソファで寝ころがっていた藤井がニヤニヤとこちらを見ていた。そして、 「おまえさー。ひょっとして、俺に付きまとうのが照れくさいから、代わりにそいつに付きまとってるのか?」 と、いつものトンデモ発言をした。亜仁衣は口を尖らせた。 「はぁ? 違うわよ!」 「ムキになって否定する奴は、大抵、図星なんだよな~」 と藤井が一笑したから亜仁衣は、 「一体、どうしたら、そんな言葉がポンポン出てくるのよ!」 といつものように憤慨した。  やりとりを聞いていたキースは、レタスをちぎりながら声を立てて笑った。これまた嬉しそうな顔をしている。  亜仁衣はキースの顔を見つめた。やっぱり、自分と藤井がからんでるとキースは嬉しそうだ。楽しそうじゃなくて嬉しそうなのだ。亜仁衣は、それでまた自信が無くなってきてしまった。 「私、嫌われてるのかなぁ……」  その夜の奴隷デート中、亜仁衣はひとりごちた。もちろんキースのことだ。子供売り場でオモチャを物色していた藤井は、ふいに、 「自信を持て」 と言った。亜仁衣はドキリとした。心の中を見透かされたのだろうか――。でも、その推測はすぐに否定された。 「俺は、おまえのことを嫌ってなんかいないぞ。何せ、おまえは俺が外出するのにこんなにも役立ってる」 「あんたのことじゃないって……」と、亜仁衣は即答した。 「まあ、そう照れるな。もっと素直になれよ」  そう言って藤井はアヒル型のオモチャをギュっと握ると、亜仁衣の顔に向けて、「ガー!」とひと鳴らし。すると、オモチャの顔からバンッとアヒルの3D映像が亜仁衣の顔に向けて飛び出してきた。 「わっ!」  亜仁衣を驚かせたアヒルは、ガーガーとけたたましい鳴き声を上げ続けている。鳴き声は人のいない店内、幾重にも重なって響き渡った。  驚く亜仁衣を見て、藤井はケタケタと笑っている。おかげで亜仁衣は脱力してしまった。  毎度の不毛な奴隷デートを終えてふたりが帰宅すると、キースは朝食の支度をして待ってくれていた。確かに外はうすら明るい。もう朝になっていたのだ。  テーブルに並べられた朝食を見ると、思わず亜仁衣は目を潤ませた。それは、亜仁衣の大好物『パンダパンケーキ』だったからだ。  亜仁衣は、こぼれるような笑顔でキースを見やった。嬉しくて仕方がない。自分はキースに全然嫌われてなんかいない。そう思えたからだ。  そして、亜仁衣は、思わずとんでもないことをしてしまった。キースに抱きついてしまったのだ……! 「パンダパンケーキ! ありがとう~!」  抱きつかれたキースは驚いた様子で目を見開くと、すぐに困ったようななんとも言えない表情を見せた。  その瞬間、亜仁衣は、アンドロイドの絶対服従機能を思い出して「……ご、ごめん!」とキースから離れた。おかげで、亜仁衣はキースの苦々しい表情を目撃してしまった。 「あ……」と言ってから、口を開けたまま硬直した。  それから、キースと亜仁衣の間には、気まずい沈黙の時間が流れた。  その沈黙を藤井が破った。 「おい! 何やってんだ!」  なぜか藤井が怒っている。 「何って?」と、亜仁衣。 「何って……。俺に抱きつくな!」 「え……? 私が抱き着いたのはキースでしょ……」 「いや、見た目が俺だ。なんだか……気味が悪い!」  そう言って藤井はしぶい顔をした。亜仁衣はしばらく絶句してから「気味が悪いって……」とつぶやくと、ふつふつと怒りが湧いてきた。 「あ~。やっぱりムカつく! こうやってキースが、私達のために料理を作って待っててくれてるんだから、なんだか嬉しくなっちゃったの! いつも、ありがとうって気持ち。あんたには、わからないわよね」  そう憤慨する亜仁衣に、藤井は余裕顔だ。 「そんなことはない。俺だってキースには感謝してる。その証拠に、ほら、お土産」  そういって、藤井は、かのガーッと鳴くアヒルをキースに差し出した。  キースは無言でそれを受け取ると、手に力が入っていたのか、オモチャはすぐにガーッと鳴いた。そして、アヒルは3D映像となってキースに向かって飛び出した。  キースは、驚いた顔をして一瞬ひるんだ。けれど、すぐにフッと吹き出して笑った。藤井は得意げだ。 「ほら、普通の人間は笑うもんだ。おまえは全然笑わなかったな」 と、キースのアヒルを奪って、亜仁衣に向かってガーガーと鳴らし始めた。3D映像が真顔の亜仁衣の前に何度も飛び出す。  勿論、亜仁衣はまったく笑えなかった。キースに、あんな苦い顔をされたのは、この三年間で初めてのことだったからだ。笑えない――というより笑うことができなかった。  その日は土曜日だった。夜中、藤井に引っ張りまわされた亜仁衣は、朝食後、再び眠りにつくことにした。眠りについて、さっきのショックな出来事を忘れたい。そういう思いもあった。ところが、ベッドに入ると逆にそれを思い出す羽目になった。  今日の天井ポスターの藤井貴伊守は、筋トレ中で苦い表情をしている。それが、さっきのキースの顔にとても良く似ていたからだ。おかげで、亜仁衣はさっきの惨めで恥ずかしい気分をありありと思い出してしまった。 (藤井貴伊守のいじわる……)  亜仁衣は、なるべく天井のポスターを見ないようにして眠りについた。  翌日は日曜日。本当はキースとのデート――藤井付き――のはずだけれど、連夜の奴隷デートのおかげで、最近の亜仁衣は疲れ切っていた。だから、何の予定も立てていない。  でも、昨日のことで、キースとは気まずい雰囲気だったから予定がなくてちょうど良かった。  昨日の食事時もキースはあまり口を利かず、代わりに藤井がほとんどひとりでしゃべっていた。やっぱり、こんなことは初めてだ。  思い返して亜仁衣が傷心していた矢先、藤井が部屋にやってきた。 「おい、出かけるぞ」  亜仁衣は無言で寝たふりをしている。 「聞いてるのか?」 「やだ」  亜仁衣は目を閉じたまま返事した。  けれど、藤井がまたキス脅迫をしてくるのではと不安になって、うっすらと目を開けた。すると、藤井は天井ポスターに写る藤井貴伊守を見上げていた。そして、そのままの姿勢で、 「へえ~。いいのか……?」 「何が」 「TOKYO水族館に行くんだけどな~」 「え?」亜仁衣は声が上ずった。TOKYO水族館は、亜仁衣が前から行きたかった場所だ。 「なんで?」 「キースから、おまえが行きたい場所だって聞いたから」  亜仁衣は身を起こすと、じーっと藤井を見た。藤井は、亜仁衣の視線をチラチラと見ながら「なんだよ」と、たじろいだ。 「私の行きたい場所を提案するなんて変! 何が目的⁉」 「何が目的って……。おまえが行きたい場所だっていうから行こうとしてるだけだろ。何が悪い」 「嘘!」亜仁衣が即答したから、藤井は呆れた様子で言った。 「おまえは、俺のことをなんだと思ってるんだ。いいか。おまえは、これまで一度だって俺にどこに行きたいだの言ったことがない。だから、俺はおまえの行きたい場所に行かなかっただけだ。勝手に人を悪の権化みたいな扱いするなよな」  藤井は、終始、亜仁衣から目をそらしながらそう言った。そして、そのまま、亜仁衣に背を向けると「ほら、行くぞ」と部屋を出て行った。  やっぱり日曜日だ。TOKYO水族館は、家族連れからカップルまで、沢山の来場客で混み合っていた。  勿論、亜仁衣達はニヤニヤとされはした。けれど、あまりの混雑具合に人々も気を取られたのか、いつもの嘲笑よりは、だいぶ手ぬるいものだった。  TOKYO水族館には、イルカや、アシカ、ペンギンと愛らしい水生生物達が暮らしている。  三人が、中でも元気なカリフォルニアアシカの家の前を通りがかったとき、アシカは前足で勢いよく水面をはたいた。その反動で、大量の水しぶきが観客通路にはね上がる。まだ足をひきずって機敏に動けない藤井は、その水しぶきをひとりかぶってしまった。 「うわっ。冷た!」  ――ウォッウォッウォッ。  藤井を見て、アシカが甲高い鳴き声を上げた。それが、藤井をあざ笑っているように見えて亜仁衣は可笑しくなった。声を上げて笑うと、藤井がジトッと睨みつけてきた。  続いて、亜仁衣の横で楽しそうに笑ったのはキースだ。でも、ふたりの目が合うとキースは笑い止んでしまった。そして、気まずそうに目をそらした。まだ昨日の朝のことを引きずっているようだ。 (そんなに嫌だったの……?)  亜仁衣は胸が苦しくなった。藤井を見やると、髪にかかった水しぶきを振り払おうと頭を振り回している。 (ねえ、藤井。早く……何か言ってよ……)  亜仁衣は泣きそうな気分になった。この気まずい雰囲気を壊すために、いち早く藤井に減らず口を叩いて欲しかった。でも、こんなときに限って、藤井は頭の水を振り払うのに一生懸命だ。  TOKYO水族館は、完全不可視の水槽の中を魚達が泳いでいる。だから、縦横無尽に張り巡らされた空中水路を泳ぐ魚達は、まるで空くうを飛びかっているようだ。その水路が、幾重にも重なった展示区間にたどりついたとき、イルカと、ペンギン、アシカの三頭が、ちょうど良い具合に泳ぎ現れた。刹那、カメラのシャッター音が鳴り響いた。 「一枚1000円で~す。いかがですか?」  いつもの奇襲型カメラマンだ。 「くださーい」  水生生物が大好きな亜仁衣は、勿論、それを買うことにした。チャリーンと電子決済音がする。ところが、手渡された写真を見て亜仁衣は絶句した。カメラマンは笑顔で、 「ありのままの動物達を撮影したいので、『migirei(ミギレイ)』は使用していません。どうでしょう。よく写ってるでしょう」 「はあ……」  確かに、水生生物はありのままの姿で写っている。でもそれに伴って、人間のほうもありのままだ。  写真には、長身のドイケメンふたりと、ずんぐりむっくりとした野暮ったい亜仁衣が写っていた。  亜仁衣は、自分とキースがリアルな姿で一緒に写ると、凄い絵え面づらになってしまうことを知っている。だから、絶対に『migirei(ミギレイ)』補正を使った写真しか撮らない。この写真のような現実を見るのは痛いからだ。  ……この写真はお蔵入りだ。亜仁衣がそう思った瞬間、藤井はその写真を取り上げた! そして、それを見るやいなやとブッと吹き出した。 「俺がふたりにおまえじゃ、おまえの芋っぷりが良く目立つなあ~。いや~、面白い写真だ」 とケタケタ笑った。  亜仁衣は顔を紅潮させて、「うるさい!」と写真を取り返そうとした。でも、長身の藤井が空高く写真を掲げると、亜仁衣の背では届かない。 「ちょっと、返してよ!」 「もうちょっと見せろよ」  亜仁衣は写真を奪い返そうと、必死でその場を飛び跳ねた。  その様子がおかしかったのか、周囲の人々がくすくすと笑い始めた。  間の悪いことに、そばにいた小さな子供が亜仁衣を指さして、「オットセイみたい!」と無邪気に言った。水族館という場所柄、周囲はドッと笑った。  亜仁衣は飛び跳ねるのをやめた。そして、泣きそうな目で周囲を見回す。この笑いは、いつもの嘲笑とはわけが違う。亜仁衣の行動そのものを笑ってる。  亜仁衣は、慣れない仕打ちにたまらなくなった。藤井を、「バカ!」と罵ると、その場から走って逃げ出した。  そのまま、亜仁衣は家に帰ってしまった。写真の恥ずかしさと、キースのよそよそしさに耐え切れずに。  水族館には、長身イケメン――それも芸能人の見た目の男――ふたりが残った。嘲笑する者はいなくなった。けれど、藤井貴伊守顔の男がふたりなものだから異様な光景だ。ざわめきの中から「アンドロイド……?」という言葉が聞こえてくる。 「あんなに怒ることないのにな~」  ぼやく藤井に、キースはただ悲しそうな顔をしている。藤井は言い訳で続ける。 「だって本当のことなんだし。っていうか、芸能人の見た目の俺……俺らと、普通の人間のあいつが同じだと思うほうがおかしくないか? だって、もし同じだったら俺は芸能人になっていないわけで……。というか俺のアンドロイドが芸能人に……か?」  キースは何も答えない。 「なんだよ、何か言えよ」  藤井が写真に目を落とすと、芋っぽい亜仁衣がふたりの長身イケメンの間で、満面の笑みを見せている。 「面白いけど……そう悪い写真じゃないよなぁ」  藤井は、少し困ったような顔でそうひとりごちた。  家に帰ると、亜仁衣はすぐにベッドに座った。そして、超小型デバイスの映像照射機能を使って目の前に鏡を作ると、そこに映った自分の顔を見つめた。 (確かに、芋っぽい……)  でも、ブスっていうわけでもない。美人ではないけど、叙鞍も素朴で可愛らしいと言ってくれてる。そりゃ、藤井は芸能人だからイケメンに決まってる。だから、比べるものじゃないけれど――。  でも、三人で暮らしていると、亜仁衣はそのことをすっかり忘れてしまっていた。  亜仁衣はベッドに突っ伏した。そして、ほんの数週間でも、藤井と自分が同じ世界の人間だと思ってしまっていたことが、段々恥ずかしくなってきた。 「「ただいまー」」  玄関のほうから、亜仁衣とは違う世界に住むふたりの声が聞こえてきた。直後、ズカズカと足音がして部屋のシールド扉が開けられた。  開けたのは藤井だ。藤井は部屋の入口で立ちんぼうすると、ふてくされた顔で腕を組んでいた。 「何よ……」と亜仁衣。  藤井は難しい顔をして、何か言いたげな様子で立っている。そして、やっと「わ……」とひとこと言ったところで、また黙ってしまった。 「わ?」 と亜仁衣が促すと、藤井は手短に言った。 「悪かった! 変なこと言ってさ」  けれど、亜仁衣は、 「別に……、あんたが謝ることじゃない。私の問題だから……」 とつぶやくように言うと、ゴロリと藤井に背を向けてしまった。藤井は、キースと目を見合わせると首を傾げた。  それからというもの、亜仁衣は自分が勘違いしてしまわぬよう、少しふたりの同居人と距離を置くことにした。おかげで、家にいる間は常に妙な緊張感に包まれていた。  一方、叙鞍とデートしているときの亜仁衣は、安心して自分でいられた。ありのままの自分でいてもいいような気がしたからだ。  こうして、亜仁衣の21歳最後の一週間は、なんとも不安定に過ぎていった。  今日は、亜仁衣の誕生日。会社では臨曄と把パ稚ティが、お弁当タイムにプレゼントでお祝いをしてくれた。ふたりが買ってくれたのは、藤井貴伊守の立体写真集だ。  立体写真集は、起動させると目の前に立体の被写体が現れる仕組みだ。この時代の写真集は、オーダーメイドで写真を選べる。だから、ファンである亜仁衣もこの写真集は持っていない。臨曄と把パ稚ティのオーダーした完全オリジナルの藤井貴伊守写真集だ。  臨曄が目の前でプレゼントを起動したから、三人の目の前には、凛とした白衣姿の藤井貴伊守が飛び出してきた。突如起きた異様なものの出現に、周辺の従業員達が少しざわついた。  写真集は嬉しかった。けれど、藤井貴伊守を見ると、亜仁衣はキースと藤井のことを思い出してしまう。おかげで、今は少し複雑な気分だった。  いつものように亜仁衣が家に帰ると、キースと藤井のふたりが並んで台所に立っていた。キースだけでなく藤井もエプロン姿だ。同じ見た目のキースなら似合っているのに、藤井だとなぜか違和感の塊だ。よく見ると、藤井の頬にはホイップクリームのようなものがついている。  亜仁衣の帰宅に気がついた藤井は、だしぬけに言った。 「誕生日だろ? テーブルで待ってろ!」  そう言うと、藤井はすぐキッチンに向き直った。  亜仁衣は、藤井の言うことを聞いて大人しくテーブルについた。それから、料理をするふたりを眺めた。自分と世界の違うふたりが、ひそひそ話をしながら何かを作っている。  時折、藤井を見やるキースの横顔が見える。満面の笑みだ。キースの笑顔はいつものそれとは違う。心の底から楽しんでいるようなそんな笑顔だ。何があったんだろうか。私の誕生日だから――? でも、私の誕生日にそんな笑顔を向けられたことなんてない。  運ばれてきた料理は、いつになく豪華だった。ところが、三人でテーブル卓を囲み、 「「「いただきま~す」」」と料理を口にしたところでボロは出てきた。  ――包丁が入りきれていなくて、暖の簾れんのように繋がった野菜。  ――調味料がダマになって、ところどころ、すごい味のするハンバーグ。  ――妙な味付けのソース。  キースと藤井。どちらが何を担当したのか、すぐにわかった。その雰囲気からして、おそらく藤井は、ほとんど料理をしたことがない。  だからこそ、料理に慣れない藤井が頑張って作ってくれたのかと思うと、亜仁衣は少しうれしい気分になった。  でも、食後に藤井が、 「亜仁衣の恋人いない歴22年目を祝って!」 とケーキを持ってきたもんだから、そんな気分も一気に吹き飛んでしまった。  ケーキは、とても綺麗な装飾がほどこされていた。キースひとりで作ったのだろうか。でも、食べてみると中のスポンジが一部ボロボロ。それを、パテのようにクリームを使って上手に修復している。たぶん、藤井が壊してキースが直したんだろう。となると、ケーキ作りも藤井が手伝っている。今日の調理のすべてを、藤井とキースのふたりで作ったということだ。これだけの物を作るのには、結構な時間がいったはず。  ありがとう――。  亜仁衣が、そう言おうと思った瞬間、キースの嬉しそうな笑顔が目に入った。やっぱり、キースは藤井にばかり笑顔を向けている。  そして相変わらず、その笑顔は自分に向けられることはなかった。今日に至っては、目を合わせることさえも。 (やっぱり、私は、キースに嫌われてる……?)  キースの笑顔を見て、亜仁衣は、またそんな思いに囚われてしまった。  食後になると、藤井はキッチンのキースにテーブルのお皿を手渡す、受け取ったキースはそれを食洗スペースに放り込む――という共同作業を始めた。  リズム良くそれを繰り返していると、楽しくなってきたのか、ふたりでケタケタと笑い出した。キースの笑顔は本当に楽しそうだ。  亜仁衣は、まだ食べかけだったケーキに目を落とした。自分はこうやって、ふたりにいろいろしてもらっている。けれど、なんだか孤独な気分だ。  キースが藤井に向けているような笑顔。亜仁衣はそれが欲しくって、じっとキースを見つめた。それに気がついたのか、キースも亜仁衣を見返した。でも、そのとたん、笑顔を失うと気まずそうに目をそらした。 (なんで――)  それから、絶対に亜仁衣を見ようとはしなかった。  亜仁衣は、キースと過ごした三年間のことを思い返した。いつだって優しい笑顔を向けてくれたキース。こんなことは一度きりだって無かった。  キースを初めて起動させたとき。目が合ったその瞬間から、優しい笑顔を向けてくれた。それから三年間。亜仁衣の記憶の中にあるキースは、いつだって優しい笑顔だった。亜仁衣は、その笑顔を見られるだけで幸せだった。  これまで、たったの一度だってこんなことは無かった。藤井が来るまでは――。  そのとき何があったのか、藤井は大きな声でケタケタと笑った。 (藤井が来なければ……)  キースと藤井。ふたりの楽しそうな馬鹿笑いが、キッチンから聞こえてくる。 (藤井が来なければ、今までどおり……)  嫌でもキースと藤井の笑顔が亜仁衣の目に入ってくる。 (今までどおり……ずっと幸せだったのに…………!)  刹那、亜仁衣の心の中で何かがはじけた。  亜仁衣は立ち上がるとキッチンまですたすたと歩いた。そして、藤井の前に立ちはだかった。 「なんだ?」  そう質問する藤井を、亜仁衣は突然突き飛ばした! 藤井は、危うくお皿を落としそうになった。 「な、なんだよ! 危ないだろ……!」  亜仁衣は何も答えない。そして、もう一回、藤井を突き飛ばした。 「うわっ!」  今度は、皿を床に落としてしまった。皿は、パリンと音を立てて割れた。  亜仁衣の奇行を前に、藤井とキースは立ち尽くしている。 「亜仁衣、危ない!」 「いたっ!」  キースの言葉もむなしく、亜仁衣は割れた皿の破片を踏みつけてしまった。  でも、亜仁衣は意に介さない。何かに取りつかれたように、藤井をそのまま玄関まで押しやった。足がまだ悪い藤井は、非力な亜仁衣にもされるがままだ。 「おい! 何すんだよ! おまえ――」  刹那、藤井は言葉を失った。亜仁衣が目に涙を溜めていたからだ。無抵抗になった藤井はそのまま玄関の外に追い出された。亜仁衣は、すぐに玄関シールド扉を閉めた。  しばらくして藤井の声がした。 「おい……。どうしたんだよ……」  亜仁衣は答えない。 「どうしたんだよ、急に――」 「出てって!」  被せるように亜仁衣が叫んだ。 「出て行けって……。俺、マスコミにやられちゃうよな。どうしたらいいんだよ」  亜仁衣は答えない。 「ああ、悪かった。見た目で家賃を払っているっていうあれは冗談だ……。口座から引き出せるようになったら、ちゃんと返すつもりだから」  また、亜仁衣は答えない。 「なあ、どうすれば……」  亜仁衣がまだ無言でいると、キースの悲しそうな顔が目に入った。亜仁衣以外の誰かのために、キースがこんな顔をするのは始めてのことだ。それを見て亜仁衣は泣きそうになった。 「……わかった!」  亜仁衣は、そう言って玄関シールド扉を開けると、今度は藤井を家に押し込んで、自分が外に出た。 「私が出て行くから!」 「亜仁衣⁉」  キースは目を見開いた。けれど、それ以上は何も言わない。  亜仁衣が去ろうとすると「待て!」と藤井が腕を掴んだ。振り返ると藤井はいつになく真面目な顔つきだ。こんなときにも、藤井はキラキラを放ってみせた。  残念ながら、このキラキラは甚だしく空気が読めなかった。亜仁衣に、藤井と自分との違いを見せつけたからだ。  それが、亜仁衣の疎外感に拍車をかけた。刹那、亜仁衣は、ぽろっと涙をこぼした。ハッとした藤井は、亜仁衣から腕を離した。亜仁衣は走り去った。 「やだ。なんで泣いてんだろ」  そう言って、通りを歩く亜仁衣は頬の涙をぬぐった。その瞬間、次々と涙が出てきた。 「やだなもう……」  ぬぐってもぬぐっても、涙はとめどなく溢れてくる。道行く人々が亜仁衣のことを見ている。亜仁衣は、もう涙をぬぐうのをやめた。  この三年間、キースと仲良くやってきたと思っていたのは、自分ひとりだけだった。  キースと自分は、所詮、所有者とアンドロイドだ。わかり合えるはずがない。なのに、わかり合ってる。ずっとそう思い込んでいた。  キースは、親友であり同居人であり、周囲からどんな嘲笑を受けても大切にしたい存在だった。でも、そんな関係は初めから存在していなかった。藤井ひとりが入ってきただけで簡単に崩れ去るような、そんなむなしい関係――。  亜仁衣は、そのことを思うとただただ悲しかった。  そのとき、メールが入った。叙鞍からだ。  〝誕生日おめでとう! 亜仁衣の会社の子から今日が誕生日だって聞いたよ。教えてくれたらお祝いしたかったのに。そういえば、亜仁衣と僕は雰囲気が似てるって言われたんだけれど、似てるかな?〟  雰囲気が似てる――。  亜仁衣は泣きながらも思わず笑ってしまった。叙鞍と自分が似ている。その言葉に妙な安堵感を覚えたからだ。そして、それは今、亜仁衣が一番欲しいものだった。  それから、亜仁衣は涙をひとつぬぐうと、叙鞍に交際を了承するメールを送った。
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