一、樹美

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一、樹美

 私が九才の秋、事故に遭って母がこの世を去った。  父は売れない役者で、母の稼ぎと家庭の切り盛りに寄りかかって生きてきた人だった。  娘を一人で育てていくなんて、とてもじゃないが無理だと、通夜振る舞いの席でぼろぼろ泣きながら言った。そして涙の跡を拭うこともなく、父はお清めの鮨を次々と口に放り込んでいた。葬儀代を出したのは祖父だったらしい。  葬儀が済むと、父は私を祖父に預け、撮影があると言って京都に行ってしまった。  大人たちの話し合いの末、母の妹である叔母とその夫が、私を預かることに決まった。父には親類縁者がなく、一人暮らしの祖父は関節リウマチのため子どもの世話をするのは難しい。 「俺に出来ることは何でもする。だから、枝里子(えりこ)則房(のりふさ)君のところで樹美(いつみ)の面倒を見てやってくれないか」  障子越しに小さく聞こえた祖父のその願いは、叶ったのである。  父と最後に会ったのは私が十四才だった年のクリスマスイブ。浅草の老舗遊園地はイルミネーションに彩られていた。周りはカップルだらけ。そんなところを、黒光りするダウンジャケットに狐の尻尾みたいなファーのマフラーを巻いた父と並んで歩くのは、少女だった私には恥ずかしくて仕方がなかった。鏡の前で、櫛とドライヤーを器用に操ってヘアセットしていた父を思い出す。母には格好よく見えていたのだろうなと思うと、なにゆえか私は物寂しい気持ちに囚われもした。 「樹美ちゃんとはこれが最後のデートになっちゃうかもしんない。お父さん、じつは結婚することになったんだよ。だから今度会うときは三人で会おうね」  その時すでに、私は法的にも叔母夫妻の子どもとなっていた。叔母の枝里子も叔父の則房さんも、無口で勤勉な人たちだ。実の父親に会わせることが、私の情緒の安定のために必要だと思ってくれていたのだと思う。しかし私は、父が買ってくれたたこ焼きを何とか飲み下しながら、もう会うまいと決意していた。
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