ドアの向こうのカルラ

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 俺がそう言って十円玉をしまうと、キティはさっきまでとは打って変わって大人しくなり、俺のズボンから前足を離していつものようにすり寄ってきたのだった。本当に、この猫は誰かさんと違って愛嬌がある。俺は猫を膝に抱きかかえたまま、ひとまず仕事の続きをすることにしたのだった。  さて。  ここまで話せば、なんとなくオチが見えた諸君もいるのではなかろうか。  俺は自分が、おかしくなっていることに全く気付いていなかった。気づいたのは、その夜晩御飯を一緒に食べながら、妻に相談した時だ。  彼女は気味悪そうに、俺に言ったのだ。 「娘って、誰?うち、子供いないでしょ?」  つまり、そういうことだ。  俺は自分が、娘の名前も知らない、だから一度も彼女の名前を呼んでいないという事実に気づかなかった。  写真だってそう。夫婦で撮った写真はたくさんあるのに、娘と撮った写真なんか一枚もなかった。当たり前だ、彼女は存在しないのだから。  もっと言えば、俺の記憶にある娘は“中学生の姿”で、“学校から帰ってくる姿”しかなかった。一緒にご飯を食べた記憶も、幼少期の記憶もなかった。それなのに俺はあいつを“俺の娘”と認識して拘り、家に招き入れ続けてきたのである。愛猫が懐かないのも当然だ、だって恐らくそいつの姿は俺にしか見えていなかったのだから。  妻にそう言われて認識した翌日から、あいつは俺の家に帰ってくることがなくなった。そもそもあいつの“部屋”と認識していたその部屋は物置部屋になっていて、殆ど部屋として機能なんかしていなかったんだ。俺はそれを知ってたはずなのに、どうして忘れてたんだろうか。  今でも、俺はあの部屋に近づくのが恐ろしい。あいつがもういないとわかっていても、どうしても思い出してしまうのだ。  もしキティが止めてくれなかったら、あの部屋の鍵を強引に開けていたら、俺はどうなっていたんだろうか。 『好きにすれば?どうなっても知らないけど』  あの、冷たくて、どこか笑いを含んだような“誰か”の声は。今も俺の耳元に貼りついて、離れることがないのである。
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