フレンチキスの夜・2

1/1
前へ
/14ページ
次へ

フレンチキスの夜・2

「英語、ね。確かにお前の唯一の弱点だわな」 「だから、教えてよ。英語! ねえ、駿ちゃん!」  私が彼の名を呼んだ瞬間、もう一度この場の空気が固まった。固まったというより、凍ったというほうが正しいのかもしれない。彼が、ぎろりとサングラス越しに私を睨んだからだ。ひぃ、とパイン君が息を飲んだ。バニーちゃんも驚きの顔をして彼を見ている。 「その呼び名で俺を呼ぶなって、前に言ったよな?」 「でも、私にとってはッ」  私にとっては、いつまでたっても駿ちゃんは駿ちゃんだもん。  そんな私のせりふは、声にならなかった。彼が立ち上がって、吸っていた煙草を私の口にねじ込んだからだ。唇でふさぐとかのロマンチックな展開ではないことに、多少がっくりきた。 「俺の言うこときかねえヤツには、お仕置きが必要だな」  彼は煙草を私の口から奪い、無造作に指から弾いて捨てた。そして私の腕を掴んで入り口へ歩き始めた。私はその腕に抗うことなく、心地よい力を感じながら、歩いていた。 「お仕置きはいらないから、英語教えて」 「英語なんか簡単だって、何度言ったら分かるんだよ」 「だって、分からないもん」 「しょうがねえな。今度から、お前とは英語だけでしゃべってやろうか? そうすりゃ、嫌でも覚えるだろ」 「やだよォ、それじゃあ駿ちゃんが何話してるかわからないじゃない」 「奈月(なつき)、二回目。教えて欲しくないのか?」 「うッ」  私がうめいていると、後ろからついてきていたパイン君が口を挟んだ。 「あの、ザキさん。英語、どこで覚えたんすか?」  彼はパイン君をぎろりと睨み、指差した。 「俺の昔の女がどんな女だったか、覚えてるよな? なんだって、実戦経験がモノを言うんだぜ?」  きっと、彼の「昔の女」はみんな外国の女なんだろう。パイン君が、あ、と言ったまま口を押さえていた。  でもね、彼はそんな女に教えてもらわなくても、英語はできたんだよ。  私はパイン君の顔を見ながら、心の中で語りかけた。キミたちの王者は、いつも、どんな時でも、いつもトップをひた走ってたんだよ。 「今日だけだぞ」 「だめ。明日からのテストも出るの。そうすれば、きっと退学にならないよ」 「しょうがねえな」  彼は私を見て微笑む。たぶんその微笑みは、ここにいる誰もみたことがない柔らかな顔。私だけに向けてくれる、優しい顔。パイン君が悪い夢でも見たかのように、口を大きく開けていた。  そうして私たちは、彼のアパートへ行った。  彼の両親は仕事が忙しくて、彼が小さかった頃はほとんど家にいなかった。そのため、彼の両親が私の母親の知り合いだったとかで、彼はうちにいることが多かった。ほんの子供のころから、私と彼はいつも一緒にいた。孤独な彼が、私の家にいる時だけは、安らいでくれていた。そう私は思っている。  結局そのすれ違いが原因なのか、離婚してしまった今は彼はお母さんの元に引き取られたのだが、そのお母さんからも独立して、ひとりで暮らしている。  彼が暮らす小さなアパートは、うちから少し離れたところあった。もっと近所に住めばいいのにと何度も言ったが、その頃にはもう彼はうちにもほとんど寄り付かなくなっていた。私とは世界が違うと思っているらしい彼は、彼の世界に私を染めないようにしてくれる。その優しさが、嬉しくも寂しい。 「久しぶりに帰るから、埃っぽいぞ、たぶん」 「うん。いいよ。じゃあ、掃除しよっか」 「そんな暇あんのかよ。英語のテスト、いつだよ」 「う……明日」  私はうつむいて彼に答えた。その私の頭をぽんと撫でて、彼は言った。 「なら、ほんとに時間ねえだろが。勉強すっぞ」  彼が言ったとおり埃っぽい彼の部屋を、とりあえず簡単に掃除機だけかけて、綺麗にした。それから私たちは教科書とノートを広げた。  彼は私の最高の家庭教師だ。私がなんでわからないかを、彼は瞬時に理解して、解決方法を教えてくれる。そうやって私たちは数時間、英語づけの時間を過ごした。その時間の中で、私はテスト範囲のことを理解し、テスト勉強の手ごたえを得た。 「ありがと。なんとかなりそう」 「そっかあ?」 「え? まだなんか分かってないこと、ある?」  私は不安に駆られて訊いた。彼はにや、と口の端をあげて、私を見た。 「そうだなあ……」  きょとんとしたまま私はローテーブルの前に座って、彼を見つめていた。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!

17人が本棚に入れています
本棚に追加