橋の上にて

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1、  そして気がつくとタルスは、凍てついた払暁の、石造りの街並を行軍する隊伍(たいご)に紛れ、丸く摩耗した石畳を踏みしだいているのだった。戦闘は日の出とともに始まり、日没まで続く。街路を埋め尽くす軍卒(ぐんそつ)どもは(たけ)り狂って、身を切るような寒気の中、吐き出す息は煮え(たぎ)噴泉(ふんせん)のようだった。脛当(すねあて)や、鎧の小札(こざね)や、槍の石突が刻む一糸乱れぬ律動は、戦場(いくさば)に赴く戦士たちの心音と重なり、(つわもの)たちを、いっそう鼓舞するのであった。  タルスもまた、鉄兜を目深に被り、円楯(まるたて)を携え、短槍を握り締めていた。ヴェンダーヤの修行僧の邪行を修めているタルスは、常ならば寸鉄も帯びずに闘うのだが、今は己が得物(えもの)を握りしめていることさえ、自覚してはいなかった。瞼を上げてはいても何も見てはおらず、聴いてはいても何も()ってはいなかった。ただ頭蓋の内を占める詞に支配されていた。ドリレス人を殺せ、という詞である。   *  その都邑(まち)はーーいや、その世界は、ひとつの巨大な橋梁(きょうりょう)であった。何リーグにも及ぶ幅と長さを持つ橋桁(はしげた)の上に築かれた都邑が、世界の全てであった。どのような力学的な構造が橋を支えているのかは、民びとの預かり知る処ではなかった。というより、その都邑の住人は、たった一つの目的しか理解していないのだった。すなわち、橋を二分する敵対勢力を滅ぼすことである。  タルスが居るのは、橋を貫通する大通りを往く隊列であったが、橋の此方(こちら)側は、サバルシカ人の支配領域であった。一方、進行方向の彼方(かなた)にあるのは、ドリレス人の陣営である。二つの勢力は、広大な橋桁の真ん中、そこで舗道の石も建物の色も明らかに変わる、文字通りの境界線を挟み、攻防を繰り広げていた。  進軍につれ、街路も円柱も戦士たちも、鮮紅色の光に染められていったが、それは実際は朝焼けによるものではなかった。  行く手の、境界線のちょうど真上の中空に、鈍色(にびいろ)の荒天を背景にして、心臓によく似た無気味な浮遊体が、明滅を繰り返していた。この世界に太陽は存在せず、空に在るのは、その浮遊体のみである。浮遊体の放つ禍々しい光輝は、まるで戦士たちの群れに血飛沫(ちしぶき)を撒いているようであった。  やがて、行く手から、自軍の挙げる喚声が遠雷の如く轟いてきた。前衛が、とうとう怨敵ドリレス軍と衝突したようだった。金属を打ち合う鈍い響きと、怒号と、悲鳴が混じりあったどよめきが、辺りを満たした。  大通りの両軍は共に、最も単純な、密集した縦隊であって、この(いくさ)は、あらゆる軍略とも戦術とも無縁の、〈境界線〉を挟んでの、力と力の押し合い、潰し合いなのだった。  乱戦はすぐにタルスの場所に達した。ドリレス人の小兵が、タルス目掛け、半ば駆け足のような突撃を敢行した。タルスも雄叫びで応えた。円楯で刺突を弾くと、逆に、短槍で敵兵の腹を思い切り突いた。ドリレス人は、ゴブリ、と血反吐を吹いた。しかし、その後には不如意な結果が待っていた。  左前方の敵兵が、味方の棍棒に頭蓋骨を砕かれ、弾かれたように横転した。そいつが、タルスの槍を腹から生やしたドリレス人にぶつかり、短槍が持っていかれたのだった。皮革の甲冑を深々と貫いたそれが、抜けずに転倒に巻き込まれたのである。タルスはやむなく槍を放棄し、抜刀した。  間を置かず、躰ごとぶつかってきた対手の斬戟を、タルスはまともに受け止めた。タルスと変わらぬ体躯の戦士である。今度の相手は強敵だった。二合、三合と刃を交えたが、互いの技倆は伯仲しており、四合めで動けなくなった。  相手がギリギリと鍔迫り合いを仕掛けくる。膂力に任せて押し切ろうとしているのだ。実際、引いてしまえば、そのまま両断されかねなかった。土壇場の、生死を別つ刃と刃の向こう、体重を乗せて力押しに肉薄する、角付きの兜を被ったドリレス人と目が合った。  その瞬間、タルスの心に波紋に似た変化が起こった。  まるで松明の焔が隙間風で揺らぐように、今の今までタルスを支配していた燃え盛る憎悪が、揺らいで弱々しくなった。代わりにいつものタルス自身が戻ってきた。(ことば)が口を衝いて出た。 「グラッダ、お前なのか? 俺だ! タルスだ!」  しかし、その女戦士は目を血走らせ、いっかなタルスを認識した様子ではなかった。白刃は、ググッとさらに押し込まれ、タルスの腕に触れんばかりとなった。  ここでタルスは、決死の体術を使った。身を落として、力を受け流しに掛かったのだ。グラッダはつんのめり、タルスに覆い被さる格好になった。すかさずタルスは、自ら後ろの地面に転がった。背中を地に着け片足でグラッダの腹を押すように蹴った。グラッダは期せずして前転し、タルスを飛び越えて投げ出された。  手練の戦士グラッダは、素早く起き上がり、追撃に備えたようだった。が、タルスの方が速かった。鋭く踏み込むと、鞭のようにしならせた当て身が死角から迫り、グラッダの顎を捉えた。一瞬にして意識を絶たれた女戦士は、その場に崩折(くずお)れた。   2、 「ーー我らは、どうなってしまったのだ?」  目覚めたグラッダの詞を聞いて、タルスはひとまず愁眉を開いた。グラッダが、タルス同様、正気を取り戻しているようだったからだ。タルスは竈にかけていた素焼きの壺を差し出した。温めた葡萄酒が入っていた。グラッダは上半身を起こして、壺を受け取った。  葡萄酒を啜るグラッダは、寝具にくるまれてはいたが、短い布地の上衣と下帯だけの半裸姿だった。甲冑類も剣も、タルスの手によって取り除かれていた。無論、けしからぬ目的ではない。グラッダの意識がまだ先程のままならば、再び闘わねばならないからだった。  闇の帳が下りた夜の都邑(まち)は、墓所のごとく静まり返っていた。浮遊体は、光るのを止め、不気味な姿はいま、闇に溶けている。タルスが覗いた範囲では、兵士たちは皆、適当な建物に引き上げて、食事や武器の手入れをして過ごしていた。しかしその目は虚ろで、人形芝居の役割を黙々とこなす傀儡(あやつりにんぎょう)のように見えた。朝になればまた、代わり映えのない、血腥(ちなまぐさ)い一日が待っているのだ。 「分からん……。が、想像がつかんこともない」  タルスは、考え考え、切り出した。  グラッダは、用心棒稼業の女だった。タルスが、さる都邑(まち)の口入れ屋から、隊商の警護を引き受けたとき、同時に雇われたのがグラッダだった。恙無(つつがな)く雇われ仕事を終えたあと、女用心棒は、タルスを郊外の荒れ野に(いざな)った。噂によれば、ペレンス野というその荒れ野で、つい先般、発見された古代の遺跡には、まだ未盗掘のお宝が眠っているという。  眉に唾をつけつつもタルスは、誘惑に抗し切れなかった。いずれ北大陸に還るつもりのタルスには、路銀が必要だった。グラッダがタルスに声をかけたのは、余所者であるタルスとは、何かとあと腐れなく山分けできると踏んだのであろうーーいざとなれば殺すことも含めて。とまれタルスたちは、勇躍、遺跡に向かったのだった。 「まさかーー」  葡萄酒を啜りながら、グラッダの目に、事態を了知した色が浮かんだ。 「此処(ここ)はーーあの、絵の中なのか?」 「だろう、と思う」  およそ超自然の出来事に疎いタルスだが、しぶしぶながら、我が身に降りかかった、此の世のものとは思えぬ怪異を認めざるを得ないのだった。   *  先ごろの大地震のあと、卒然とペレンス野に出現した石造りの廃墟は、弓張月の下に、(じゃく)として(うずくま)っていた。平屋建てで横に拡がるその遺跡は、霊廟にも、権門の城館にも見えるが、およそ今の世に知る者とてない様式の建築であった。大理石に似た、しかしやはりどこか違う材質で出来ており、不可解な角度で壁と丸屋根が交わっている。突き出た尖塔は溶けた蝋燭のようにねじくれていて、外壁に刻まれた神々は、見知らぬ風貌であった。  荒れ果てた建屋を前にしたタルスは、よもや時空の彼方から来訪した廃墟ではあるまいか、と狐疑逡巡(こぎしゅんじゅん)した。流浪の暮らしの中で、そのような事物が在ることを聞き知っていたのだ。この時点でタルスの本能は、災厄を嗅ぎつけていたのだった。が、グラッダは気にする様子もなく踏み込んで行き、タルスはまんまと後に従ってしまった。  幾つもの房室(へや)を見て回ったが、見たこともない金属で作られた七枝燭台と、古びた(ひつ)に仕舞われていた、貴石の縫い付けられた薄衣(うすぎぬ)の他は、銀貨に変えられそうな品物は見出だせなかった。  気落ちしていなかった、と云えば嘘になろう。だからこそ、吸い込まれるように、二人は奥へ奥へと進んでいったのだった。  最後に入った大広間に、その壁画はあった。壁一面を占め、建材に直接、顔料で描かれているのは、奇妙な橋であった。 「なんだ……この薄気味悪い絵は?」  グラッダが、松明を掲げて眺め歩いた。絵の横幅は、広間と同じ幅があって、大人で二十歩ほどもあると思われた。また、縦は部屋の高さと同じであり、絵柄は天井まで及んでいる。グラッダが動くと、光の領域も動いたが、全体像を見ることは叶わず、端は闇に溶けているのだった。  何度か往復し、ようやく絵の構図を捉えることが出来た。  横長の画面いっぱいが橋長(きょうちょう)であった。それもただの橋ではない。橋桁の上には屋根の平らな建物が立ち並び、それ自体が一つの都邑(まち)になっているのだった。絵の端から端まで、つまりは街全体を、大道(だいどう)が貫いており、その道には武器を携えた兵士が(ひし)めいていた。上手と下手、両方から押し寄せた兵士が、橋桁の半ばでぶつかり、凄惨な殺し合いを繰り広げているのだった。不気味で、見る者をどこかゾッとさせる絵である。  それに気づいたのは、同じように壁画を見渡していたタルスだった。 「あれは?」  指し示した場所を、グラッダの持つ松明が探り当てた。壁の高い場所、絵柄で云うと、両軍のぶつかる最前線の真上に、何かが埋め込まれていた。  (しか)とは云えないが、煌めくそれは、血のような色をした紅玉と思われた。見たこともないくらいの大粒で、しかも妙に生々しい、内臓めいた形状に加工されている。相当な値打ち物ではないか? 二人は顔を見合わせてニヤリと笑いあった。しかし、二人の目はすぐさま紅玉に引き戻された。あらためて見ると、その紅玉の輝きは、まるで脈打っているように感じられるのだった。 「ーーおい! おい!」  グラッダの声が不意に大きくなった。タルスは己れが話しかけられていることに、ようやく気づいた。 「あ、ああ……何だ?」 「ーーあれはーーどうやったらーー外れるーーと思うーー」  尋ねているグラッダの声が、不可解に遠遠(とおどお)しく聞こえていることに、タルスは気づいた。水の中で聞こえてくる音のようだった。タルスは、無意識に、耳の穴を指でほじったが、何の変化も起きない。 「おい、何かおかしくないか?」  タルスは返事をしたがそれは、グラッダに不審がられるほど、間遠(まどお)なものであった。そしてタルス自身は、そのことを自覚してはいなかった。  二人のやり取りのあいだ、紅い光は、ハッキリと明滅し始め、広間中が朝焼けめいた光に包まれていたが、二人は気づいてすらいなかった。グラッダの耳にも、タルスの声は遠遠(とおどお)しく響き、互いの視界は、グンニャリと歪んでいった。  いまや紅玉の纏う耀きは、光球のようなハッキリとした実体を伴っていた。それは急激に膨張し、光球は瞬く間に、二人を呑み込んだのだった。  そしてーー。  明滅が唐突に止んだ部屋には、二人の姿は跡形もなく消え去っていたのだった……。
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