馨しい珈琲に舌を出した

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馨しい珈琲に舌を出した

 何もかもが消え去ればいい、そう思うことは何回だってある。面倒なことは全部したくない。学校へ行きたくない。朝、起きたくない。夜、眠りたくない。生きるのが億劫──だけど、死ぬのも面倒。  そんなふうに、全ての欲望が「したくない」になった時。私はいつも外に出る。外に出るという行為は「したくない」の中に入らないのか、と言われても知らない。矛盾だらけなのは分かっている。だけど、そんなこと言ってしまえば矛盾なんていくらでもあるんだから。あらゆる矛に私の盾は守ってくれない。都合のいい盾だから。  そして、いつでも私を世間の声から守ってくれるイヤホンがまた私を守っている。所持品はイヤホンとスマホ、そして財布。以上。あとは後ろめたさだとかそういう感情のみ。ジーパンのポケット二つで足りるため、余計な鞄は持ってきていない。そして足元に目をやると、Nの素敵なスニーカーが元気に地を踏んでいる。  私は、何もかもが嫌になった時──ここ半年間毎日だというツッコミは聞こえない──に家の周りを散歩している。イヤホンをする日もあるししない日もある。他人と話しながらでは感じることのできなかった何かを感じれるようになり、それで私は落ち着く。  横断歩道。赤信号。  律儀に、というか当たり前のように立ち止まる。横断歩道の先に、こじんまりとした喫茶店を見つけた。真っ白で、古臭さを感じない外観。ただでさえ一通りの少ないこの辺りが、火曜の午後一時に何らかの事変で急激に人が多くなるわけがなく、やはり疎らだ。その喫茶店にも人は入っていないようだ。そんなことを横断歩道のこちら側から見ていた。店の名前までは視認できない。  青信号。  私はシマウマの背中を歩くかのように横断歩道を渡った。浮ついた気分でその喫茶店の前に立つ。看板は出ておらず、外壁に「()紙間(かみま)」という名前が文庫本の活字のフォントみたいに浮き出ている。開店閉店時間は分からないけれど、ガラス窓の向こう側で女性が暇そうにグラスを(あお)っていたから開いていると判断した。ドアを開けると、聞き覚えのあるジャズが流れ出す。(ほの)かに煙草の香り。グラスを呷っていた女性は驚いたように目を見開いたがすぐに営業スマイルを作った。 「おひとりですか? こちらへどうぞ」  いちいちカウンターの外側へ出ることなく、カウンター席の一つを指差した。接客としてはどうなのだろうかと思ったが、それほど気にしなかった。  店内を見回す。灯りは淡くしか付いていないが、陽の光がたっぷりと店内に入り込むので程よい明るさを保っている。瓶に入った珈琲豆が女性の背後にざっと三十ほど綺麗に整列している。お洒落でかっこいいと思う。  ただ、それだけ。  右側の壁には本棚があって、そこには本だけでなく色んなものが仕舞われていた。例えばミスターチルドレンのCD。それは8ミリディスクの頃のシングルから最新作まで。アルバムやDVDなんかも揃っている。本は重松清(しげまつきよし)西尾維新(にしおいしん)辻村深月(つじむらみづき)中島美言(なかじまみこと)住野(すみの)よるなど。背表紙が灰色の、辞書みたいな分厚さの本もある。背表紙の色がほぼ均一だ。彼女は収集が好きなのだろうか。 「ご注文は何にしましょう」  女性はメニュー表を指差して眉を下げた。メニュー表に目を落とすと、そのA4サイズの紙にボールペンで手書きで書かれたような文字が、充分な余白を持って、あった。  アイス珈琲  ホット珈琲  メニューはそれだけ。 「珈琲はよく飲まれますか?」 「はい。インスタントですけど」  毎朝、お父さんが飲むついでで私も飲むような生活が中学生の頃から続いている。最初のうちはミルクも砂糖も入れなければ飲めなかったものも、ここまで長いこと飲み続けていれば何も入れずとも飲めるようになった。 「なら、ホットをお勧めします。その方が、本来の珈琲の美味しさを分かってもらえるはずです」  彼女がそう言うのなら、それでいい。外は春と夏の境、寒くも暑くもないような心地良い気温で、店内も何も感じない室温だ。気温によってアイスかホットかを決めるほど変わりはない。  女性は、彼女の背後の壁を執拗に見ていた。瓶に詰められた珈琲豆はそれぞれ種類が違うものなのだろうか、使う豆を吟味しているようだった。珈琲にこだわりのない私は、こんなにも品種があることにまず驚いた。やがて一つを取り出した彼女は、その少しをミルに入れた。ミルの取っ手を優しくゆっくり回す。豆が削れていく音が鼓膜を撫で、ぞわりと鳥肌が立つ。 「香りがいい……」  思ったことをすぐに口に出してしまう性格ではない。しかし、本当に思わず、そんな言葉が出てしまった。先程まで鼻先を啄いていた煙草の香りが、馨しい珈琲の香りに打ち消される。しかしあれは、この女性のものなのか、はたまた誰か客が吸っていったものの残り香か。 「だろ?」  女性は、私の反応を予測していたかのようにちょっとあざとい笑みを浮かべる。綺麗なお顔をしているから、どんな表情だったとしても美しい。見透かされたような気がしたけど、悪くはない。 「酸味の少ないマンデリンを使ってる。それより──アンタ、訳あり?」  ミルで挽いた豆と白く湯気立つお湯を真っ白なカップに入れ、私に差し出す。見た目から美味しそうなのが伝わってくる。漆黒──まさに漆を塗ったような黒なんだけど、透き通る透明さもある。鼻先に感じる匂いはまるで心を撫でるように落ち着くのに、それでもひとたび溜飲すれば脳を突き刺すようなあの苦味がやってくる。そんな不思議な液体。だけど惹かれる。カフェインのせいではないだろう。  女性の言葉に、私はひどく動揺した。訳ありなのは確かだし、この人ももしかすると「あちら側」の大人なのかもしれない。今度こそ本当に見透かされたような気がして、いい気はしなかった。 「なんでそう思うんですか」 「アンタ学生だろ? そんな子がさぁ、火曜の真昼間からわざわざこんな辛気臭い喫茶店なんか来ないって。どうした、精神的にイカれてんのか?」  いきなり、初対面の客に対して「お前頭イカれてるのか?」と聞くような喫茶店は確かにおかしい。皮肉を言っていることはすぐに分かった。 「学校に行けてない学生だっているんです」 「やっぱここっていわく付きなのかもな。心配すんな、私も似たようなもんだよ」  そう言いながら、女性は煙草の箱を取り出して、ふと思い出したように私を見た。 「お嬢ちゃん、名前は?」 「なんで知らない人に言わなきゃなんないんですか」  まだ私の警戒心は消えていない。ここらの中学と言えば私が通っている──はずの──中学しかない。万一通報されてしまったら面倒なことになる。私の登校拒否を許してくれているお母さんとお父さんに迷惑がかかってしまう。 「中学生? だとしたらあそこか。通報なんかしないよ。常連を増やしたくてね。楽しい話でもしようぜ、お嬢ちゃん?」  彼女のニヤついた顔は一向に晴れる気配はない。こっちの方が面倒だ。まあ、合法的に綺麗なお姉さんと話せるのならいい。私の裏の事情について聞かれるのであればそれは別の話だが。 「椚田(くぬぎだ)小春(こはる)、です」 「秋生まれ?」 「そうですけど、なんで分かったんですか?」  名前に何か季節に関する言葉と言えば「春」なのに。それを秋だと判断するのはどういうことだろうか。 「あなたも教えてください」 「錦花(にしきばな)穂波(ほなみ)」  言葉の音の響きがとても綺麗だと思った。それは単純に彼女の発音が美しいだけかもしれないが。 「えっと、小春。煙草吸ってもいいか?」  先程から薄々勘づいてはいたが、やっぱり煙草は穂波さんのものだったらしい。こんな麗しいお姉さんが煙草を吸っている、その事実だけでもうお腹いっぱいだ。ギャップというか、私の性癖を突いている。 「大丈夫ですよ、慣れてるので」  後半は余計だったかもしれない。別にお父さんが煙草を吸っているから慣れているだなんて誰も聞いていないのに言ってしまった。私のいけないところだ。 「小春はさ、どうしてうちを選んだんだ?」 「雰囲気、の良さですかね。しかも中に入ってみたら趣味が合いそうだなぁって思って」 「趣味?」 「今流れてるのって、アート・ブレイキーですよね。あとあそこにあるのはビートルズのレコード。それにミスチルも好きなんです。年頃の女の子が聴くような音楽じゃないですけどね」  アート・ブレイキーはジャズドラマーで、ビートルズやミスチルは言わずと知れたロックバンド。よく聞くのは邦楽だけど、同世代にアート・ブレイキーなんか名前すら知っているはいない。音楽の趣味というものは合わないと結構苦しい。 「なるほどねぇ。小説とかは? 私、結構読書家だと思うけど、そこに置いてる本とか読まないの?」  敢えて私が触れずにいたこと。まるで小さな本屋さんぐらいの量の背表紙。それは、見ただけで吐きそうになる。 「ごめんなさい。本は苦手で」 「そうか。こればっかしはよく爺ちゃんが言ってたことに納得だよ。『これだから今ドキの若者は』ってね」  穂波さんは徐に、カウンターの内側からこちらへとやって来た。私をそのまま素通りし、本棚の方へ行き、その本の中から一冊を取り出した。今度こそ私の隣に座る。煙草を吸っているはずなのにいい匂い。大人の女の人、って感じの体型。 「どうして小説がダメなのかは知らんが、なんとなくそれは許せん。これでも読め」  そう言って穂波さんが差し出したのは、中島美言の『狂言塔(きょうげんとう)』。  文庫本サイズで、表紙は原稿用紙のようになっていて、マス目の中にきちんとタイトルと名前が印字されている。中島美言のことは小説を読まない私でも知っていた。彼女は教科書で知った。今使っている──はずの──教科書にもあった。 「明日も来るよな?」  唐突にそんなことを穂波さんは言う。特に明日も予定は無い。こんな日々はいつまで続くのだろうか。終わりの見えない未来を怖いと思ったことはないが、後ろめたさはいつでも感じている。 「まあ、はい」 「学校行ってないって、中卒? それとも高校自体は行ってて不登校?」 「後者です」 「なるほど、じゃあ家で自習は?」  授業は受けていなくとも一応は一端の高校生だ。その程度の知識は持っておきたいので私は家で自習している。まだ私が学校へ行っていた頃よりも遥かに効率がいいことが分かった。  私は無言で首肯する。 「偉いな、お前」 「小春、です」 「すまんすまん。明日、家でやってるところ持ってきな。こう見えても私って賢いんだ。だから私が教えてやるよ。小春が学校に行きたくなるまで、な?」  穂波さんは煙草の先を灰皿の縁に軽く叩く。零れた粉は、元からあった吸殻と同化する。穂波さんはまた残りの煙草を吸って、害悪物質を含んだ煙を空に吐く。 「分かりました」  それから、何の脈絡もないような世間話をして今日のところは帰った。珈琲代は初回サービスと言ってタダにしてくれた。明日からはきちんと支払おう。  横断歩道を渡り、見慣れた道を戻る。あの場所、そして穂波さんから離れていくようで心が少し締め付けられる。高校に行けなくなってから、こんな気持ちになったのは初めてだ。胸が苦しいのに、しんどくはない。しんどいことは何度もあったのに。──そのせいで学校へ行けなくなったのに。  家に帰って自室に入り、私はリュックサックに教科書や自習のノートを詰めた。詰めた後で、穂波さんに借りた文庫本を開く。一ページ目、蜉蝣(かげろう)()のように薄いその紙を捲る。すると、明朝(みんちょう)の海がそこには広がっていた。当たり前だ、小説なんだから。だけど、その文字群が私を圧迫する。  目を文字から逸らして文庫本を閉じる。窒息したように詰まった息を整える。できると思ったのに、やはりまだ無理か。これは罰だ。罪を犯した私への罰。当然の罰。  ──どうして、椚田さんはそういうこと言うの?  ──酷いよ、小春ちゃん。  ──空気読めよ、お前。  うるさい。黙っててよ。  そんなの、私が一番分かってるんだ。アンタらに言われなくても分かってる。私があんなことを言ったせいだから。だから、もう言わないで。そんな言葉を投げかけないで。 「私を一番嫌ってんのは、私なんだ」  横断歩道を渡る。  引き戸を引く。  昔よく聞いたジャスが流れ出す。私を迎えているかのように。そして、穂波さんが嬉しそうに「いらっしゃい」と言う。こんな幸せがあってもいいのだろうか。 「ちゃんと持ってきたか?」 「はい」  リュックサックの中から参考書とその問題を解いたノートを取り出しカウンターに置いた。殆どの教科を参考書を使って勉強しているので参考書やノートは何冊にも及ぶ。穂波さんはノートを捲り、それぞれの教科で色んな顔をしながら唸った。 「意外と賢いんだな。教えられることはないよ」  煙草に火をつけて咥える。煙草の先の火がぼんやりと点滅して、それが穂波さんの呼吸なのだと思うとなぜかもどかしい気持ちになる。白い息を吐くと厭な匂いが店内に立ち込めるがそれもまた、穂波さんの呼吸だ。 「ほぼ、と言うと」 「国語がまるでダメ。品詞とか活用とかの文法はできてるけど、読解力がない。なんかすっごい理系って感じだな。クソ喰らえだ」  凄い。こんな下品な言葉を使っても、穂波さんだからか変な気は起こらない。私は今、絶賛貶され中だというのに。  読解力がない。行間を読めない。  比喩が分からない。言葉の綾が分からない。  読むように努力はしているつもりだが、それでもやはり私には無理だ。 「まるで機械みたいだ。昨日渡した本はちょっとは読んだか?」  できる限り申し訳なさそうに首を振る。 「そうか。だけどな、あのぐらい読めないとダメだぞ。高校生としてじゃなくて、人として、な?」 「ごめんなさい」 「何も謝る必要はないよ。少しづつでいい。今ここで読んでみたらどうだ? 珈琲と文庫本は合うぞー」  そう言い、穂波さんは私に中島美言の『狂言塔』を差し出した。参考書の山に紛れていた、昨日私が途中で読書を断念したものだった。 「私は、物質として本が嫌いなんです。この薄い紙の質感と匂い。頁が捲れる時の音、無機質に並んだ、印刷された明朝体。それが生理的に無理なんです」 「そっか。じゃあ私が読むよ」  穂波さんは頁を捲って恐らく明朝の海に視線を落とした。 『また私は些細な空想に(ふけ)ってしまうだろう。他人からすれば本当にちっぽけで何の価値もない些細だけど、私にとっては大きい何かだ。あの雲海の彼方に君がいるのかい? そう心の中で問うてみても誰の返事もない。解っている。だけど分かってはくれない。それはだって、私がまた現実から目を背けているだけだから。』 「この文章の美しさが分かる?」  煙草を咥えながらふにゃふにゃとした声で穂波さんは私に問うた。文学史としても名前が挙がる中島美言のことは情報としては知っていて、彼女が純文学出身であることも認知していた。  一般に「小説」と呼ばれる文学のジャンルには「純文学」、「大衆文学」、「ライトノベル」の三つに分類される。「文体の美しさ」に重きを置いているのが純文学で、「キャラの濃さ」に重きを置いているのがライトノベル、所謂ラノベ。そしてその両方のバランスの調律が取れているのが大衆文学だ。中島美言の場合はデビュー作より数年間は純文学だったが、徐々に大衆文学に寄っていき、果てにはライトノベルのような濃いキャラも登場している、らしい。  ルーツが純文学ということもあって、それとなく文章が綺麗で繊細だというのは何となく感じた。しかし何を伝えたいのか全く理解できない。私は、言葉をそのまま読んでしまう。その言葉の中に含まれている裏を汲み取れない。第一、「わかっている。」って言ったくせにその直後に「わかってはくれない。」ってなんだよ。 「えっとな、朗読したはいいけどこれは実際に漢字を見なきゃ分からない。最後の方に出てきた『解っている。だけど分かってはくれない』って文章なんだけど。前者の方は理解の解の字。後者が分割の分の字なんだ。前者は理解、という意味である意味機械的に理解していることを表してて、後者は心情としては分かっていないということを表してる。だから、理性と感情の反発、ジレンマを表してるんだよ」  なるほど、そういうことか。穂波さんの丁寧な説明があれば私にも『分かった』し『解った』。そう思えば小説も意外と面白いものなのかもしれない。自分で読むことはできないけど、穂波さんに読んでもらえるなら私にも理解できるかもしれない。しかも穂波さんの麗しい低音を聴けるならなおさら。 「あのっ……」  声が上ずった。今更何を恥ずべきなのか。私は出された珈琲を飲み干して言った。舌に残った甘い感触を吐き出すように。 「私に、読んでもらえませんか?」 「いいよ」  即答だった。その潔さに思わず舌を巻いてしまうほどだった。つい先ほど、甘ったるい珈琲の味が残った舌が。  そして穂波さんは紡ぎ出した。今まで私が嫌煙していた小説がすっと頭に入ってくる感覚が心地良いと感じた。そして、要所で解説してくれるのも私にはありがたかったし、嬉しかった。  いつしか私は、小説を愛していた。 「小春さ、『月が綺麗ですね』って知ってるか?」  私が穂波さんと出会ってから一週間が経った頃、私は既に彼女が朗読してくれる小説に見事に虜になっていた。毎日のように通いつめて穂波さんの言葉で小説を読む。音声が頭の中で文字に変換され、読んだ気でいられる。私が唯一出来る読書の方法だった。 「『愛してる』の比喩とは聞いたことがあります」  穂波さんの問いに、私は知っている知識だけを答えた。 「そうだ。あれは夏目漱石が言ったんだ。漱石は英語の教師でな、ある生徒が"I love you."を『我、君愛す』と訳したのを『日本人はそんな訳し方しない』って言って訳したのが『月が綺麗ですね』だったそうなんだ。綺麗だと思わないか? 日本語の豊かさというか、多様性ってのはこういうところにあると思うんだ」  穂波さんは儚げな表情を浮かべ、嬉しそうに言った。夏目漱石という名はもちろん知っている。日本人としての常識として。しかし彼の小説は読んだことがないし、有名なフレーズほどしか知らない。だから、彼のその逸話を聞いてとても美しいと思った。本音を言葉の裏に隠す日本人、というか日本語の特色が苦手だったが、ある意味そっちの方が綺麗だと思えるまでには私も成長したということだろうか。 「穂波さんはそんなことを言うような人っているんですか?」  つい悪戯心がはたらいて聞いてしまった。また、空気も読まないで。穂波さんの答えを聞くよりも早く、過去の忌むべき回想が頭を過ぎった。  私は過去、まだ高校へ通っていた時に一つの過ちを犯した。それはあまりにも大きすぎて、たった一つで私の地位を最低にまで陥れた。私は、文化祭で行われる劇の脚本を書いてきた男子に、面と向かって「何が面白いんだ。暗すぎて気持ちが悪い」と言ってしまった。無神経な発言すぎて学校に居場所は無くなり、結局今に至るというわけだ。 「さぁ、どうだろう」 「そ、そう、ですか」  声が上ずったのが分かった。適当に流せたことだったはずなのに、心のどこかに引っかかった結果、声がおかしくなってしまったのだろう。何をそんなにも怯える必要がある。別に私は穂波さんに特別な感情など抱いていないはずだ。  抱いていない、はずだ。 「今日はもう、帰ります。珈琲代は置いときますから」  一体、誰に何を怒っているのか。なぜ、どうして?  私は、私を今しがた支配しているこの気色の悪い感情の正体が分からないでいた。  ――いいや、きっと解ってはいるはずだ。  この感情を文字に起こしたならば、本当は「解っている」はずの感情を、「分かっていない」と誤魔化していることがバレバレに違いないだろう。  私はやっぱり狂っていたのか。  他の人とは違っているんだ。  人の感情が、行間が読めない。  同性の、しかも十も歳の離れた人に好意を抱く。  漫画やアニメでは「百合」や「薔薇」と愛称をつけて尊んでいるけれど、実際はそうじゃない。それは端的に言えば「レズビアン」や「ゲイ」であり、包んだオブラートを引き裂いてやると「性的マイノリティー」という言葉が浮かぶ。それをどうにか肯定しようという風潮だが、マイノリティーと実際に言ってしまっている時点で終わっているのだ。  やっぱり私は狂っている。  学校で虐められてからは何度も妄想で人をぐちゃぐちゃにした。  自分で読んだのは最初に穂波さんからもらった『狂言塔』の一ページだけ。  そういえば穂波さんを自慰のネタにしたこともあったかな。  狂ってるなら、このままでいいや、もう。  法に触れなければいいんだ。あとは好きに暴れ、踊り、舞おう。  この、虐められっ子のままで学校に行くなんて正気の沙汰じゃない。  だから、私は長い間着ていなかった勝負服に身を包まれ、学校へ行った。 「産休、育休でお休みを取らせていただいていましたが、今日から復帰することになりました。みんな久しぶりだね。休み前と変わらず現代文を教えるから、頑張って着いておいでよ!」  目の前の奇跡(不条理)を疑った。  これが代償か、と悟った。 「ほ、穂波さん!」  思わず叫んだ私に、クラスメイトが一斉に視線を刺す。 「椚田さんも、ようやく学校に来れて良かったぁ。私と一緒だ! これから頑張ろうね」  紙でも貼り付けているんじゃないかと思うほど、彼女の笑顔は薄っぺらかった。  嘔吐。  今朝飲んだ珈琲の、馨しい香りが舌を撫でた。思わず私は、
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