1

1/1
前へ
/7ページ
次へ

1

 眠りにつく前にスマートフォンを覗いていると、兄から電話がかかってきた。実季架が十七歳の頃に名古屋の家を出た長男・由季織は、東京で雑誌編集の仕事をしている。関係は良好で頻繁に連絡を取り合っているが、電話は久しぶりだった。 「最近どう? 実季架ちゃん?」 「ちゃんって言うな!!」  久々に話せて嬉しいと一瞬でも思ったことを後悔する。由季織のからかうような口調は昔と何ら変わらず、男三人兄弟を統べる長男の声だった。次男である実季架は、兄から始まった名前いじりに辟易していた。  実季架、という可愛らしい名前に最初に提言したのは紛れもない長男である。まだ実季架が母の腹から出てきたばかりの頃、両親から弟の名前を聞かされた由季織は、当時七歳であったその純真な心で「女の子の名前みたい」と口に出した。その感想は皆同じなようで、如何なる場所でも自己紹介をする度に言われ、友人からは揶揄され、大人からは生暖かい目で見られ……。大抵の人ならばもう諦めるほど言われた訳だが、実季架は毎度新鮮に反抗してくる。そういうところが名前とは違った意味で「可愛い」のだろう。  しかし、大学生にもなればそう言ってくる人も減る。ただ一人、由季織を除いて。今まで独り占めしていた両親からの愛が分散することへの嫉妬も多少はあったのだろうが、それにしても長く続いているものだ。弟をからかうのはいくつになっても楽しいのだろう。 「ごめんごめん、久しぶりに聞きたくなって」 「電話切るぞ」 「あー! それはやめて! ごめんって言ってるだろ!?」 「……で、要件は?」 「最初に言っただろ? 最近どうって」 「どうって…………どうもしてないけど……」 「趣味とか、楽しいこととか、ない?」 「もう、無いよ」  __足がじわりと痛む。ひたすら幸せそうに、どこまでも走っていけた。それはつい一年前のことなのに、もうあの頃が懐かしい。  陸上しか知らない実季架は昨年、陸上を失った。 「……そうだろうと思って、お前に良いものを用意した!」  少しの沈黙を破った由季織は、明るく言った。 「男の人と仲良くなるバイト、やろうぜ?」  昔、実季架に子どもらしいイタズラを教えていたのはいつだって由季織だった。キラキラと輝いた笑顔で、今思えばしょうもないことをいくつも思いつき、それを一緒になって実行した。その時と全く同じ声色で、よく分からない内容が発された。 「えーと、つまりどういうこと?」 「だーかーらー、バイトだよ、バイト。人とお話するだけでお金が貰えるバイト」 「いや……めちゃくちゃ怪しいじゃん……」 「大丈夫。俺の知り合いの知り合いだから」 「その人と会ったことは?」 「ない」 「他人じゃん!!」  思わず声を上げる。由季織は半笑いになりながらそれを宥めた。 「絶対大丈夫だって。保証するよ」 「なんだよその自信……」 「俺が自信無かったらもっと怪しいだろ?」 「あぁ……まぁ、確かに……」 「そうそう。それに本当に危ないと思ったら自分の足で逃げれば良い。お前だってもう大人だろ? そのくらいの危機管理できるはずだ」 「危機管理できてるから嫌がってるんだけどな……」 「あはは」 「あははって……他人事か?」  そう問うと、今までの軽い口調とは打って変わって真剣に言った。 「違う違う。実季架が大切だから勧めてんの」 「…………」 「なぁ、一回だけ行ってみてくれよ」  語りかけるような声色だった。それは実季架を本当に想った言葉で、兄からこう言われて断るほど実季架の心は冷めていなかった。 「………………分かった、行くよ。とりあえず一回な」 「よっしゃ! これ言ったらオーケー出ると思った!!」 「なっ……嵌めたのか!?」 「嵌めてない嵌めてない。本音だよ」 「嘘だ!」 「まぁまぁ。もう言質取ったからな。今更断るなんて無しだぞ」 「あぁー!!」  実季架の叫びもお構い無しに、バイト先の住所と相手の名前、そして日時を伝えられる。手短に情報を話すだけ話し、「聞こえてないだろうからメールでも同じこと送るよ」と言ってそそくさと電話を切った。言い逃げだ。  これを兄の戯言だと水に流し、約束を破ったとしても由季織はさほど怒らないだろうが、真面目な両親に育てられた実季架にそんなことはできなかった。ましてやお金が無くバイトを欲していたことも事実。  男三人を育てる融通が利かない両親は、その真っ直ぐさ故に中々昇進せず、厳しい経済状況であった。長男が自立し少しは楽になったものの、弟・志季斗の大学受験も控えている。バイトは欠かせない。また、コストカットを理由に三月末での解雇を言い渡され、四月から入れるところを探していたところでもあった。  由季織からのメールには先程口頭で言われたように思われる住所等と共に、時給が書いてあった。 「…………うわ……めちゃくちゃ貰えんじゃん……」  そこにあった驚くべき数字に、またもや不安が募る。ほんの少し喜びが過ぎったことは、気のせいだと思いたい。  メールに書かれていた住所は、大通りから少し奥に位置する閑静な住宅街の中にあった。西洋を思わせる丸い窓の付いた薄い黄色の外壁の一軒家である。実季架は約束の午後四時に余裕をもって到着したものの、インターフォンを押すことに躊躇いを覚えていた。全く知らない人の家に入り、会話をしてお金を貰いに行くのだから躊躇するのも仕方がない。  だがもう引くに引けない。兄の知り合いの知り合いだからそこまでおかしな人ではないだろう。腹を括ってボタンを押した。 「はじめまして」  扉を開けたのは丸眼鏡をかけた、実に頭の良さそうな青年であった。しかし冷たい喋りではなく、実に柔らかく話す人だと感じる。国語教師を彷彿とさせた。格好もそのまま学校へ行けそうな清楚な服装で、白い着心地の良さそうなシャツに、紺のカーディガンを羽織っていた。ひょろりと長い脚に黒のスラックスパンツを着こなしている。  ほっそりとした身体に真っ白な肌、外に出ていないことは一目瞭然だ。実季架を雇った側なのでおそらく歳上だろうが、何故か大人びた少年のような面影があった。自らを立派に見せようとしながら、未熟な部分を隠しているような。 「は……はじめまして」 「ごめんね。急にこんなところに呼び出されて不安だったろう?」 「まぁ、はい……?」 「とりあえず入って。中で話そう」 「お邪魔します」  家の中からは柔らかい匂いがした。人の家の匂いだ。だがあまり緊張する感覚ではなく、祖父母の家のようだった。  実季架が土間、つまりは低い位置に居るため大きく見えるのかと思ったが、どうやら違うらしい。薄い身体とは裏腹に、案外背が高かった。手足がひょろひょろと長い。運動による刺激で身長が伸びたというよりは、遺伝の影響で不本意に伸びてしまったといった様子だ。実に羨ましい伸び方であるが、実季架の方が身長が高かったので気にならなくなった。  いくつか扉を過ぎ、通された部屋はリビングだった。よくある一軒家のリビングといった感じで、テレビの前に木製のローテーブルとソファ、そしてキッチンの付近にダイニングテーブルと椅子が四脚並んでいた。だが、椅子の数に反して人が住む気配が少ないように思われる。土間に置いてあった靴は彼の物しかなかったはずだ。家具の温かさと彼の寂しげな雰囲気が似つかわず、妙な気持ちになった。 「どうぞ」  四脚ある内の一脚を勧められ、軽く会釈をして席に座った。 「あぁ……敬語は外して構わないよ。人に使われるのは慣れていないんだ」 「えっ」 「気にしないで」  陸上部時代に培われた上下関係の意識と反するが、本人にそう押されているなら差し支えないだろう。それに、彼の困ったような笑顔をこれ以上困らせたくはなかった。 「それで……その、自己紹介、してもらえるかい?」 「あぁ、うん……?」  面接の意味も込めての自己紹介かと思いきや、実情はそうでもないらしい。 「ご、ごめんね、友人が勝手に進めてしまって……何も聞かされていないんだ。今日この時間に人が来ることしか知らない…………」 「もしかして、俺の名前とかも?」 「……ごめん……」 「マジか……」  本当に申し訳なさそうに肩をすくめるので、責める訳にはいかなくなった。流されやすいのだろうか。その友人とやらに完全に負けてしまっている。  ここで一つ妙案が思いつく。女っぽいと散々いじられたこの名前を言わなくても良いのではないかと。苗字だけを名乗るのもおかしくないはずだ。後に書面等で知っても遅くはない。 「分かった。自己紹介ね。俺は…………山上、です」  誤魔化そうとする思いが強くなり、先程仕舞った敬語が出てきてしまった。兄から嘘をつくのが下手だと言われたことがあったと、口に出してから思い出した。 「……下の名前は?」  その言葉にビクリと反応する。 「言わなくちゃダメか……?」 「苗字ではなんだか他人行儀じゃないか。……僕はあまり好きじゃなくてね」  彼の表情が曇る。やましい事があるとそちらにばかり気を取られがちだが、彼は違うところで引っかかっているのだと気づいた。下の名前に興味があるのではなく、苗字が嫌いなのだろう。 「…………みきか……実季架だ」  実季架はおずおずと言った。いつも絶対に反応される名前だ。初対面で話題が少ない中、少しでも気になった場所に焦点を当てるのは分かる。あちらも話題をひねり出しているのだ。そうだとしても、やはり嫌だった。でも、この人なら大丈夫だろうか。 「そうか。じゃあ……みきくんだね」  なんでもないように言った。これだけ気にされないのは初めてで、逆に聞いてみたくなった。 「女っぽい名前って、言わないのな」 「……あれ、言われてみればそうだね」 「気にならないのか?」 「あまり……。それより、みきくんって呼んでも良いかな?」 「…………うん。良いよ」  しばらく呆気にとられたが、なんだか面白くなってきた。この人はたぶん良い人だ。ちゃんとあだ名で呼んでも良いか確認を取るくらいに。 「よかった。あぁ、僕のことは好きに呼んで」 「えぇと、瀬戸、時晴さん……だよね?」  メールに書いてあった名前を確認すると、時晴はコクリと頷いた。実季架が「みきくん」と呼ばれるのであれば、自分も呼びやすい簡単なものが良い。好きに呼んでと言う割に、先程苗字があまり好きではないと言っていたから、それはやめた。 「じゃあ……ときさん。良い?」 「もちろん」  時晴は柔らかく笑った。これが本来の笑顔だ。彼に寂しげな雰囲気があるのはこの笑顔を長らく人に見せていないからだろう。コミュニケーションが苦手というより、数が足りていない。話せば案外普通か……普通よりも優しい人だ。  時晴は続ける。 「大学生、だよね?」 「そう。二十一歳」 「若いなぁ」 「ときさんも言うほど歳じゃないだろ?」 「僕は二十五、君と比べれば歳だよ」 「全然じゃん。俺、兄貴が二十八だからさ」 「お兄さんがいるのか」 「そうそう。三兄弟、しかも全員男。俺はその真ん中」  相槌に話しやすさを感じながら喋っていると、肝心なことを思い出した。名前のことで色々考えていたらつい忘れてしまった。 「あっ! そもそも兄貴が電話してきたんだ。良いバイトがあるって」 「バイト……?」 「でも、さっき何も知らないって言ってたし……」 「…………」  時晴は考え込み、そしてすぐさま納得した。 「……あぁ、なんとなく分かった。確かにバイトだよ」 「分かった……?」 「何も教えてくれない訳だ……また彼に心配をかけてしまったな……」  一人で考え、一人で解決してしまって、実季架は置いてきぼりだ。 「ときさん……?」 「あぁ、ごめん。大丈夫だよ。ところでみきくんはお兄さんに何を言われて来たかな?」 「えっと……『人と話すバイト』……」 「君、よくそれで来たね……」 「色々あったんだよ…………」  実季架は目を逸らした。改めて言われると本当によくこれで来たと思う。しかし、後悔はあまり無かった。案外変な人ではなさそうだからか、時晴の柔らかい喋りに呑まれてしまったのか。チョロいと言われればそれまでだ。 「まぁその通りだけどね。僕と話すバイトだよ、僕とお友達になるバイト」  時晴は前々から決めていたように流暢に話した。 「僕、画家なんだ」 「画家!?」 「うん。ただ少し……スランプでね。自分が満足のいく絵は描けないし、もちろん売れもしない」 「え……」 「そこで君だ。一人で悩んでいても変わらないし、画家という職業じゃ世界が狭くてね。新たな視点が得にくいんだ。だから友人が君を呼んでくれた……のだと思う」 「なるほど……?」 「簡単に言うと僕のアシスタントかな。なんでもない話をして、一緒にいるだけのバイト……どうだろう? やっぱり変かな?」  またも時晴は困ったように笑った。実季架にばかりメリットがあり、逆に時晴はそれでも良いのかと聞き返したくなる。陸上をやめてからバイト三昧で楽しみも無かった中、一風変わったことができるのであれば有難い。それでお金が貰えるなら万々歳だ。  __それに、なんだかこの人は、放っておけない。  また彼に寂しげな雰囲気を纏わせたくなかった。 「…………変だとは思うけど……良いよ」 「良い、のかい?」 「ときさんが言ったんだろ?」 「そうだけど……。自分で言うのも変だけど、怪しくないかい?」 「あはは! 初めからそうだよ。兄貴からかかってきた電話からずっと怪しかった」 「……それもそうか」 「うん。選んだのは俺だよ」 「……なら、お言葉に甘えて……?」 「それもなんかおかしいけど……まぁ良いか」  時晴は縋るように此方を見た。 「僕の心、動かしてくれるかい?」 「俺にできることなら、頑張るよ」  画家の手伝いとなればその人の絵を見たいと思うのは当然のことで、実季架は時晴の過去作を見たいと言った。  案内されたのは先程通り過ぎた階段である。二階に上がると廊下を挟んで二つの扉があり、向かって左の扉に入った。そこには一部屋のアトリエがあった。そして、外から見えた丸窓は此処だったらしい。丸く光が射し込む場所にイーゼルが一つ、それに描くための椅子が一つ、窓に向かって置かれていた。イーゼルには何も立てかけられていない。  時晴は壁際にひっそりと置いてある布がかけられた何枚かのカンバスへ近づき、その中の一つを取った。布からは見間違えかと思う物が出てきた。 「写真じゃん……」  それは瑞々しいオレンジの絵だった。見るからに新鮮で、今にもその香りが漂ってきそうな作品である。その絵には写真と見紛うほどのリアリティがあった。 「あぁ、これ懐かしいな。たまたまオレンジがあったから描いたときのだ」 「ときさんすごいじゃん! こんな綺麗な絵描けんの?」 「ありがとう。……でも、これなら写真で充分だ」  ぼんやりと遠くを見ながら、時晴は呟いた。 「君は……この絵を買いたいと思うかい?」 「え、いや俺は……絵にあんまり興味ないし……上手いとは思うけど」 「やはりそうか……」  語弊があったかもしれない。詳しくない自分には評価ができない、という意味で言ったのだが。そう弁明しようと思ったが、予想外の言葉が返ってきた。皆まで言わずとも分かっているような。 「『やはり』? 心当たりでもあるのか?」 「大学の時よく言われたんだ。『上手いだけで描きたいものが見えてこない』って」 「描きたいもの……?」 「僕も、分からないよ」  丸窓から射す夕日が後光のように見えた。だが彼の表情は逆光で、よく見えない。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!

5人が本棚に入れています
本棚に追加