寡黙な服飾職人と天真爛漫な花屋の恋

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寡黙な服飾職人と天真爛漫な花屋の恋

『貴女が一番輝ける服を仕立てます』  街で評判の仕立て屋のドアに貼られた一文。その一文が揺れ、ドアが開く。  客を見送るため店内から出てきた青年は、傾いてきた日差しに目を細めたが、すぐに振り返り頭を下げた。 「ありがとうございました」  青年にエスコートされた妙齢の女性が微笑む。胸には大事そうに抱えた紙袋。 「こちらこそ、ありがとう。このドレスで最高の一夜が過ごせそうよ。ただ……そうね。一つだけ注文をつけるとしたら」  女性からの思わぬ言葉に、青年は焦って顔を上げた。無造作にまとめた髪が揺れ、長い前髪の隙間から切れ長の黒い瞳が覗く。  仕上げた服に対して、不満を耳にしたことはない。青年の顔が青ざめ、通った鼻筋に艷やかな黒髪が流れる。  女性は鋭く青年を指差した。 「髪を切りなさい。せっかくの綺麗な顔が隠れて勿体ないわ」  青年は目を丸くしたあと、再び頭を下げた。 「ご忠告、ありがとうございます」  緊張を解き、平然とする青年に女性が肩をすくめる。 「やっぱり、聞き入れるつもりはなさそうね。ま、いいわ。髪を切りたくなったら私の店に来なさい。サービスしてあげるから」  ウインクとともに女性は颯爽と街中に消えた。その姿を見送った青年は店内へ戻る。 「さて、次の服を作らないと」  祖母から引き継いだ服飾店。人と話すのは苦手だが、服を作るのは楽しい。  床を軋ませ店の奥へと歩いていく。 『ねぇ、次はどんな服?』 『ドレスがいいわ』 『それは昨日作ったじゃない。次はふんわり可愛い服よ』 『私はウエディングドレスを作ってみたい』  軽い声とともに複数の光の球が舞う。  青年は慣れた様子で声をかけた。 「次はワンピースですよ。初めてのデートで着るそうです。まずは生地から選びましょうか」  壁の棚に大量の布と糸が並ぶ工房。片隅にあるミシンは埃を被っている。  青年は切れ長の瞳を閉じ、依頼人を思い浮かべた。  明るい太陽の下。喜びと少しの不安とともに着る服。褐色の肌には、派手な色よりも少し控えめで涼やかな水色。首元は小さな丸襟で可愛らしく。スカートは短すぎず、清楚な長さに。でも、白のレースで華やかさも忘れず。  この服で極上の時間を貴女に。  目を開けると、思い描いた通りの服が浮かんでいた。 『どう? 最高の仕上がりでしょ?』 『あーん、ドレスが作りたかったのに』 『可愛い服もいいじゃない』 『やっぱりウエディングドレスが作りたぁーい』  明るい声が飛び交う。青年は晴れやかな笑顔で服に手を伸ばした。 「想像通りの素晴らしい服です」 『じゃあ、今日はクッキーがいいわ』 『紅茶はハチミツたっぷりね』 『花も忘れずに』  次々と注文が降ってくるが、青年は当然のように頷いた。 「買いに行ってきます」  ドアにCLOSEの札を下げて市場へ向かう。歩きなれた石畳の道。ふと祖母の声が浮かんだ。 『もし、この店で妖精に出逢ったら花をあげなさい。気に入られたら、一日一回だけ服作りを手伝ってくれるよ。そして、手伝ってくれたら必ずお礼をすること。お菓子とお茶とお花。この三つを忘れてはいけないよ。忘れたら手伝ってもらえなくなるからね』  市場に到着した青年はクッキーを購入し、いつもの花屋へ。しかし、そこに花はなかった。いや、花どころか店がない。  青年は慌てて隣の店の女店主に訊ねた。 「あぁ、花屋の亭主がぎっくり腰をしてね。花を仕入れても運べないから、しばらく休むってさ」 「……そんな」 「なに、世界が終わるような顔してるのさ。花屋なら、南口の端にもあるよ。ここからだと反対側だから遠いけどね」 「ありがとうございます!」  青年は駆け出した。いつもの花屋の亭主なら、自分が毎日花を買いに来ることを知っている。だから、必ず花束をとっておいてくれる。だが他の花屋だと、そうはいかない。もし、売り切れていたら……  急ぐ青年の脳裏に祖母の言葉が響く。 『あぁ、それともう一つ。コレをしたら、妖精はいなくなってしまうからね。けど、こればっかりは仕方ないかもしれないね。したくなくても、してしまうかもしれないから』  ドン! 「キャッ!」  狭い通りで肩がぶつかる。青年は転けなかったが、相手は尻もちをついた。 「す、すみません! 急いでいて」  青年は手を差し出し、ハッと息を呑んだ。  相手が持っていたのであろう花が空から降ってくる。白や黄色、ピンクと色鮮やかな花がゆっくりと舞い降り、その先には…… 「私の方こそ、ごめんなさい。ちょっと、よそ見をしていて」  春先の新緑のような緑の瞳。上等な絹糸のように輝く亜麻色の髪。鼻の上にそばかすをのせ、美人ではないが可愛らしい顔立ち。恥ずかしそうに自分の手をとる、はにかんだ笑顔。  その瞬間、青年の中でナニかが弾けた。 『恋をしたら、いけないよ。恋をしたら、妖精たちは消えてしまうから』  祖母の言葉が呪詛のように聞こえた。 ※  女店主に教えてもらった店で最後の花束を買った青年は、薄暗くなった店に戻った。 「ただいま帰りました。遅くなって、すみません」  いつもなら、ここで小さな光とともに明るい声が出迎えてくれる。なのに、今日は静かだ。 「隠れんぼですか?」  青年は軽く首を傾げながらも、手際よくクッキーと紅茶を並べ、花束を飾った。 「どうぞ。召し上がってください」  返事はない。夕陽が室内をオレンジに染める。この工房はこんなに静かだっただろか。 「まさか……」 『妖精は、嫉妬深くてね。服以外のことに心を奪われたら、嫉妬して妖精は消えてしまうんだよ。特に、恋をしたらね』  青年は祖母の声をかき消すように頭を振った。 「いや、そんなことはない。僕は恋なんてしていない。きっと明日には元通りだ」  その日。青年は夜更けまで工房で過ごしたが、妖精が現れることはなかった。  翌朝。  テーブルを前に青年は俯いていた。普段なら空になっている皿にそのまま残されたクッキー。紅茶も減っていない。花瓶に活けた花が垂れている。 「……そうか。きっとクッキーの気分ではなかったんだ。確かマドレーヌの時は美味しいって喜んでいたな。よし、マドレーヌを買ってこよう。花も売れ残りだったから。もっと新鮮な花にしよう」  青年は市場に足を向けた。 (もし、このまま妖精が消えてしまったら……いや、そんなことはない。これは何かの間違いだ)  自然と歩調が早まる。 「焼き立てのマドレーヌに朝露に濡れた花なら、気に入ってくれるはず」  市場の南口にある花屋へ。そこで足が止まった。 「なんで、ここに……」  青年の視線の先。二つに結んだ亜麻色の髪が楽しげに揺れる。笑顔で花に話しかけながら、丁寧に店頭に並べていく。妖精はいないはずなのに、周囲が輝いている。  ドキリと胸が鳴る。近づきたいのに、近づけない。  生唾を呑み込んだところで、少女が青年に気づいた。 「あ、昨日のお兄さん。おはようございます。昨日はぶつかって、ごめんなさい。配達の途中だったから、急いでて……って、どうしました?」 「い、いや……あの、その……」  予想外のことにあたふたしながら、青年はどうにか花を指差した。 「は、花を……」 「花束ですか? どの花で作りましょう? 今の時期なら薔薇やオリエンタルリリーが綺麗ですよ。大きくて豪華な花束になります。でも、こちらのオキシペタルムやカンパニュラを入れた花束も良いですよ。小さい花たちですが、一つ一つが可愛らしくて。あ、カラーだけの花束もオススメです。シンプルですが、花の美しさが際立って……あ、ごめんなさい。つい、夢中になって」  謝りながらも、その顔は嬉々としている。本当に花が好きなのだろう。  青年は少女の気迫に押されながらも、なんとか声を出した。 「じゃ、じゃあ、オススメを……」 「はい! 少々お待ちください!」  少女が軽やかに踵を返す。スカートの裾がふわりと広がる。飾り気がない質素なベージュのワンピースに紺色のエプロン。動きやすさを重視しているのだろう。 (もったいないな。せっかくだから花に合わせて、もっと淡くて明るい色の……)  と、服のデザインを考えかけて青年は思考を止めた。 「今はそれどころじゃない。この前、買ったマドレーヌの店はどこだったか……」  たまたま通りかかった店だったため、はっきりとは覚えていない。青年は顎に手をあて、必死に記憶を辿る。  少しして、甘い匂いが鼻をかすめた。顔を上げると、満面の笑みを浮かべた少女と花。 「お待たせしました。どうぞ」  渡されたのは、長い茎の先に大きな花びら一枚をクレープのように巻いたような、独特な形をした白い花の束。リボンで結んでいるだけだが、下手に飾っていないため花が引き立つ。 「あ、ありがとうございます」  青年は恐る恐る花束を受け取った。その様子に少女が吹き出す。 「そんなに緊張しないでください。そんな顔だと花まで萎れちゃいますよ」 「い、いや……その、あの…………すみません……」  沈む青年に少女が慌てる。 「そんな、謝らないでください。軽く言っただけなんで」 「すみません……」 「あぁ、だから謝らないでください」 「す、すみませ……あ、いや。その、すみま……ちがっ」  言葉に詰まり青年は顔を真っ赤にして俯いた。穴があったら入りたい。ローブがあったら被って姿を消したい。  なんで自分はこうなのか。いざと言う時に上手く言葉が出ない。  目をキツく閉じて佇んでいると、胸に何かが触れた。そっと瞼を動かすと、胸ポケットに白い花が刺さっている。一輪なのに甘い匂いが強く、存在感がある。  青年が驚いていると、少女がイタズラをした子どものように笑った。 「クチナシの花です。すぐ傷むので、いつもは切り花ではなく鉢植えで売っているのですが、困らせてしまったので、特別にプレゼントしちゃいます」 「そ、そんな、悪いです。申し訳な……」 「ここは、謝るところじゃなくて、ありがとうって言うところですよ」  少女の朗らかな声とともに、ストン、と何かが青年の心に落ちる。 「ありがとう……ございます…………」  普段なら謝り倒すのに、この時は抵抗なく礼が言えた。  呆然としたまま青年は店の前にいた。ドアを開けようとして、重要なことを思い出す。 「しまった! マドレーヌ……って、あれ?」  花束とともに抱えた紙袋。その中には、ほかほかのマドレーヌ。 「このマドレーヌは……あ、そうだ。途中のケーキ屋さんで買ったんだった。なんか頭がボーとしているな」  マドレーヌの香ばしい匂いが紙袋から溢れる。ふと、花屋の少女の顔が浮かんだ。 「こういうお菓子が好きそうだなぁ」  青年は自分の呟いた声に驚いた。 「いや! いや! いや! 関係ない! 関係ない! あの子は関係ない!」  激しく首を振りながら工房に入る。青年は手際よくマドレーヌと紅茶と花束を並べた。 「とっておきの茶葉を使ったし、これなら大丈夫」  青年は椅子に座り、妖精が現れるのを待った。  翌朝。 「どうして……どうしてなんだ……」  青年はテーブルに両手をついて項垂れた。目の前には手つかずのマドレーヌたち。  一日一着しか作れない上に、すでに昨日作る予定だった服は影も形もない。 「なんとかしないと……でも…………」  予約してくれた人のことを考えると、なにがなんでも服を作って渡さないといけない。その人にとって大事な日に着る服をこの店で買うと選んでくれたのだから。  でも、自分で服を作るのは…… 「と、とにかく予約してくれた人には服が遅れると伝えて、いつまでなら待ってもらえるか確認しないと。あと、お菓子と花も買ってこないと。今日は茶葉も買おう」  青年は寝不足のまま店を飛び出した。  慣れないことの連続に青年の白い顔は青白くなっていた。そのやつれた様子に服を予約した人の中には、服より青年の体調を心配してくれた人もいた。  とにかく頭を下げてまわった青年はフラフラと市場に入った。朝早くから開いている市場は、昼過ぎには閉まる店もある。  片付けをしている店を抜け、花屋へ向かう。  花はどうしても買わないといけない。花屋には行きたくないけど、行きたいような。少女には会いたくないけど、その姿は見たいような。  複雑な足取りで目的地へ。 「あ、今日も来てくれたんですね」  少女の笑顔が眩しすぎる。顔を逸らした青年を気にすることなく少女は運んでいたバケツを下ろした。 「今日はどんな花にしますか? 午前中にだいぶん売れちゃいましたが、オススメは……」 「お、オススメで!」  少女と会話したら自分が自分でなくなりそうな気がした青年は、必死に少女の言葉を遮った。  少し驚いたような顔をした少女だったが、すぐに笑顔で頷いた。 「じゃあ、今日は芍薬を使った豪華な花束にしますね。見てください、この花びらの重なりと広がり。こんなに綺麗に咲いてるのは、なかなかないですよ」  少女が踊るように手を動かし、あっという間に花束を作成していく。  その様子を眺めながら青年はこれからどうするか考えた。 (選択肢として自分で服を作る、というのもある。だけど、妖精のように作れる自信がない。やっぱり妖精にお願いするしか……そもそも、なんで妖精が消えたんだろう……恋なんてしていないのに)  そこで少女と目が合う。 「どうぞ」  花びらが何重にも重なり、ボリュームがある花。色は淡いピンクや黄色みがかかった白と、全体を引き締める赤を使い、明るくも上品な花束。  そして、疲れた自分に向けられる笑顔。これは勘違いしてしまう。  そうか。恋をしていると心が勘違いしているんだ。勘違いを治せば妖精が出てくる。でも、どうすれば……  花束を受け取らない青年に少女の眉尻が下がる。 「気に入りませんでしたか?」  青年が少女に詰め寄る。 「僕をフッてください」 「フ、フル? 振る? 降る? ですか?」  我に返った青年は慌てて両手を振った。 「な、なんでもありません! 忘れてください!」  青年は代金を払うと花束を掴んで走り去った。  その日も青年はお菓子と紅茶と花を飾ったが、妖精は現れなかった。  追い詰められた青年はひたすら考えた。 「どうすれば……どうすればいいんだ……そうだ! いっそのこと、あの子に嫌われればいい! そうすれば……いや、そうなると花が買えなくなる。あぁ…………」  寝不足の頭でまともな答えなど出てこない。日に日に青年のクマが濃くなっていく。  街で評判の菓子を買い漁り、様々な茶葉で紅茶を淹れ、花屋に通う日々。 「ちゃんと寝てますか?」  花束とともに少女からかけられた言葉。青年はぎこちなく笑うだけで精一杯だった。 「あの、私でよければ話を聞きますよ? 話すだけでも楽になる時もありますし」 「いや、その……」  青年は断ろうとしたが、目の前には話を聞く気満々の少女。他に客はおらず、逃げることもできない。  青年はぼそぼそと一人言のように話し始めた。 「あ、あの……僕は服屋なんですが、そこで服を作ってくれていた妖せ……あ、い、いや! いや! ち、違うんです! あの、その……ひ、人! 人です! 服を作ってくれていた人が、突然消えて! それで、服が作れなくなって……」 「まぁ、それは大変ですね」 「そうなんです……予約が詰まっているので、早く戻ってきてほしいのですが……」 「戻って来られそうなんですか?」 「それは……」 (僕の恋心が消えたら戻ってきてくれる……はず)  微かな望みも言葉にならず消える。  青年の沈黙から、その人が戻る可能性が低いと想像した少女が胸の前で腕を組んだ。 「困りましたね……あの、失礼ですが貴方は服を作らないのですか?」 「ぼ、僕は、その……作れないことはないのですが、その人のように上手く作れなくて……」 「つまり、作れるんですよね?」 「は、はい」 「他に貴方より上手に服を作れる人はいますか?」  青年は少し考えて首を横に振った。 「知り合いにはいません」 「なら、貴方が作るしかないと思いますよ。……ちょっと厳しいことを言いますが、戻ってこない人を待つより、貴方ができることをした方がいいと思います」 「で、でも……」  躊躇う青年に少女が詰め寄る。 「それとも、待っていたら服ができるんですか?」 「いや、できない……です」 「なら、少しでも現状が良くなるように動かないと。私なら、そうします」  青年は悔しそうに俯いた。  作れるなら、作りたい。動けるなら、動きたい。少しでも輝ける存在になりたい。でも…… 「僕は貴女のようには、なれない」  青年の言葉に少女は丸い目をますます丸くして吹き出した。 「プッ、当然ですよ。私は私。私が貴方になれないように、貴方は私になれません。むしろ、なってもらったら困ります」 「なってもらったら困る?」 「そうですよ。私が二人もいたら、どっちの私からお花を買うか、お客さんが迷っちゃいますもん。お兄さんも迷うでしょ?」  茶目っ気たっぷりの少女のセリフに青年は呆気にとられた。それから、じわじわと笑いがこみ上げ、気がつけば声に出して笑っていた。 「どれだけ自意識過剰なんですか? 貴女が二人いても、どちらから買うか迷いませんよ」 「ちょっと、それ!どういう意味です!?」  少女が頬を膨らます。青年はようやく笑いを引っ込ませた。 「だって、どちらも貴女なんでしょう? それなら、どちらも同じだけ輝いているんですから。どちらから買っても同じです」 「輝く?」 「はい。貴女はいつも輝いていて、眩しいです」  毎日、会うたびに感じていたこと。それが笑顔とともに自然と青年の口から出た。  それまで毅然としていた少女の顔が呆然となる。それから、ポンッと真っ赤になった。 「あ、あの、お兄さんって人たらしですよね」 「え?」  二人の間に微妙な風が吹いた。 ※  工房に戻った青年はミシンに被った埃を払った。 「やれるだけ、やってみるか」  一応、お菓子と紅茶と花を飾る。それから、期限が迫っている依頼人の姿を思い浮かべた。 「オーダーは結婚二十周年の記念ディナーで着る服。夜だから明る過ぎず、しっとりとした紺色で。生地は天の川のような光沢がある絹。形はタイトになりすぎず、ゆったりと。でも、腰は引き締めてメリハリを。あと、派手になりすぎないように軽く銀糸で刺繍を入れて……」  青年は服の完成形を想像して目を開けた。妖精がいた時なら、ここで服が出来ていた。しかし、今は空虚な天井しかない。 「これが普通。さて、作るか」  青年は大きな紙を作業台に広げた。手早く線を引き、型紙を作る。それを切り取り、今度は選んだ布にマチ針で留めていく。  しばらく作業をしていなかったが、しっかりと体が覚えていた。楽器を演奏しているかのように、淀みなく動き続ける指。リズムをとりながら無駄なく動く手。  しばらくして、ミシンの音が工房に響き始めた。祖母から工房とともに引き継いだクラッシックな足踏みミシン。カタカタと一定の心地良い音。  人と話すのが苦手で、運動も苦手で、同級生たちとは距離があった。なんとなく家にも居づらくて、気がつけばこの工房で、この音を聞いていた。  その日、工房からミシンの音が消えることはなかった。  翌朝。 「やっぱり駄目だ……」  完成した服をマネキンに着せて微調整をしていた青年は両手を床についた。想像した服と微妙になにかが違う。なにが違うのか分かればそこを直すのだが、そこが分からない。 「やっぱり、妖精じゃないと……あの子に、フラれない、と……」  疲労が頂点にきていた青年は、そのまま意識を失うように眠った。  コンコン。  青年は店のドアをノックする音で目覚めた。窓の外を見れば太陽が真上にきている。 「しまった! 今日は昼に依頼人が服を取りに来る……」  コンコン。  もう一度、ノックの音。青年は慌てて起きてドアを開けた。そこには、五十代ぐらいの婦人が立っている。 「あの、依頼した服を取りに来た、のですが……」  婦人の控えめというか、どこか引いた様子に青年は自分の状態を思い出した。  寝ぼけ眼で、髪はボサボサ。本人は気づいていないが、頬には床の木目の跡まで付いている。  青年は苦笑いを浮かべながら婦人を店内に招き入れた。 「あ、あの、今朝できたばかりで……その、お気に召さなければお代はいりませんから……」  布の切れ端や糸くずが散らかった工房。その中心に陽射しのカーテンを浴びるドレスがあった。  ひと目で婦人の顔が輝く。 「なんて素敵なの! やっぱり、この店にお願いして良かったわ!」 「あ、あの、これでいいですか?」 「これでいい……いえ、これがいいわ」 「は、はぁ……」  喜びに溢れた婦人を見送り、青年は工房に戻った。 「あれで、よかったのかなぁ……あ、お菓子と花を買いに行かないと。次の服も作らないと期日が……」  青年は顔を洗うと市場へ向かった。 ※  青年は市場に入ると、すぐに声をかけられた。 「よう! 久しぶりだな」  そこにはぎっくり腰で店を閉めていた花屋の店主がいた。 「腰が良くなってきたからな。また店を開けたんだ」 「はぁ……」 「とりあえず今日は迷惑をかけたお詫びだ。持ってけ」  青年はユリの大きな花束を押し付けられた。ユリの匂いが強く豪華な見栄えだけど、少女が作った花束に比べたら何か物足りない。 「あ、いや、でも……」 「また、贔屓にしてくれよ!」 「あ、はい……」  店主の勢いに負け、青年は花束を受け取った。  目的の花束は手に入れたし、すぐにお菓子を買って帰らないと、服を作る時間がない。  でも……少しだけ。姿だけでも…… 「駄目だ! 駄目だ! そもそも僕はフラれないといけないのに!」  青年は盛大に後ろ髪を引かれながら市場を後にした。 ※※  それからも青年は毎日、お菓子と紅茶と花を飾った。しかし、妖精は現れない。でも、服の依頼は溜まっている。青年は期日が迫っている服からひたすら作った。  そうして数日が経った、ある日。  青年は花を買うために市場に入ろうとして、ふと足を止めた。  そういえば最近は忙しくて、南口にある花屋まで花を買いに行っていない。あの少女とも、しばらく顔を合わせていない。 (久しぶりに顔を見たら、なんともないかもしれない。恋が勘違いだった、と証明できるかも)  青年はいつもの花屋を避け、別の道から市場の南口へ移動した。  そこでは少女が朝露に濡れた花たちを店頭に並べていた。過不足なく全ての花が客から見えるように。花に話しかけながら丁寧に。  その姿はさながら花の妖精のようで…… 「眩しい……」  ぽろりとこぼれた言葉に少女が反応する。 「あ! お兄さん!」 「はっ! あっ、いや、今のは……」  焦る青年に少女が駆け寄り、頭を下げた。 「この前は出過ぎたことを言って、ごめんなさい!」 「はぇ!?」 「あれから、お兄さんが来なくなって……言い過ぎたかなって」  沈む少女に青年は両手を振って否定した。 「ち、違うんです! あの後、自分で服を作って……それで、ここまで来る時間が、その……なくて」 「すごい! 自分で服を作れたんですか!?」 「あ、はい。でも……」 「でも?」 「なんか、納得できなくて、妖せ……いや、いや。戻ってこない人が作っていたような服が作れないんです」 「お客さんは? お客さんは服を受け取って、なんて言ってます?」 「お客さんは……今のところ、みんな喜んでます」 「なら、良いじゃないですか」 「へ?」 「これは秘密なんですが」  少女が周囲に人がいないことを確認しながら青年に顔を寄せる。 (近い! 近い! 距離感!)  焦る青年に気づくことなく少女は小声で話した。 「私も満足した花束を作れたことがないんです」 「へっ!? いつも、あんなに素晴らしいのに!?」  驚く青年に少女が頬を少し赤くする。 「す、素晴らしい、って……いつも頑張って作ってるだけです。ただ、渡し終えてから、やっぱり赤をメインにしたほうが良かったかも。とか、差し色にパンダナスの葉を入れたら良かったかも。って、後悔するんです」 「意外……です。でも、そういう時はどうするんですか?」 「また、次を作ります。次はもっと良い花束を作るんだ! って。だって、改善の余地があるってことは、まだまだ良い花束が作れるってことですもん」 「いや、でも……僕はどこを良くしたらいいのか分からないんです」  少女が小さな顎に細い指を当てる。水で荒れ、お世辞にも綺麗とは言えない指。でも、どんな女性の指より輝いている。 「あー、わかります。なんとなく納得できないんですよね。そういう花束が出来ちゃうこともあります」 「そういう時はどうするんですか?」 「ほっときます」 「えっ……」  期待していた答えと違う。明らかに落胆する青年に少女が話を続ける。 「ですけどね。ほっといたら、ある日突然、あ! ここが悪かったのか! って気づくことがあるんです」 「そんなことが?」 「あ、疑ってますね? 嘘だと思うなら、やってみてください」  頬を膨らました少女に青年が慌てる。 「い、いや! 嘘だなんて思ってないです! ただ、僕にも気づける日がくるのか……」 「作り続けるしかないですね」 「そこまで作り続けられるか……」  落ち込む青年に少女はくるりと背を向けた。スカートがフワリと揺れる。 「んー。じゃあ、作った服をお客さんに渡した時のことを、思い出してみてください。お客さんはどんなことを言っていました?」 「えっと……想像以上とか、綺麗とか、可愛いとか……あと、ありがとうって」 「それですよ!」  少女が満面の笑みで振り返る。 「喜ばれて、ありがとうって言われたら、嬉しいじゃないですか。あぁ、作って良かったって。だから、私は作り続けるんです」  自信にあふれた、その笑顔。眩しいけど、見ていたい。その可愛らしく愛おしい姿を。 (……あぁ、僕はこの子のことが好きなんだ)  否定するために来たのに、青年はストンと納得してしまった。 ※※  それから青年は花屋の少女のところへ通うようになった。恋心は否定できない。もう妖精は現れないだろう。それでも、お菓子と紅茶と花は飾り続けた。習慣となってしまったのと、こうすると少しでも上手く服が作れるような気がした。  しかし、青年は満足する服が作れなかった。それでも少女が言った通り、客に喜ばれると嬉しい。  こうして服を作り続けながら、いくつかの季節が過ぎた頃。  その日の青年は太陽の下を珍しく走っていた。 「寝過ごした!」  いつもなら朝一で少女に会うために市場へ行くのだが、今日は昼前。花は売り切れていないと思うが、急いで市場に飛び込む。  少女がいる花屋の近くまで来たところで、立ち話をしている婦人たちの声が青年の耳に入った。 「……ねぇ、仲が良いわよね」 「結婚が決まってから、毎日この時間に来てるのよ」 「そうそう。ブーケを自分で作りたいんですって」 「まぁ、カッコいい上に素敵な人なのね」  ほのぼのとした見守るような視線の先。花屋の少女が楽しそうに男性と会話をしていた。  青年より少し年上。太陽のように輝く金髪に、少女と同じ新緑の瞳。落ち着いた雰囲気で大人の余裕もある。  そして、二人の手には白の花で作られたブーケ。  これ以上近づけなくなった青年は無言で踵を返した。工房のドアが荒々しく閉まる。外は明るいのに、暗い静寂が青年を包む。 「……クッ」  小さな嗚咽か響いた。  あれからどれぐらいの時間が過ぎたか。月が沈みかけ、東の空が明るくなってきた。 「……服を、作らないと」  青年は顔を上げ、依頼人の姿を思い出した。二十代半ば。お見合いのために着る服。 「……あれ?」  いつもなら、これだけで要望に沿った服が頭に浮かぶ。それなのに…… 「服が想像できない?」  青年は必死に考えたが、なにも浮かばない。 「どうして……」  絶望とともに力が抜け、床に腰が落ちた。  服の形が浮かばなければ作ることもできない。  工房に飾っていた花は枯れ、紅茶は水分が蒸発して濃くなり、クッキーは石のように固くなっていた。  動く気力もなくなった青年は、呆然とミシンの前に座るだけの日々を過ごした。ミシンの音がすることも、手や足が動くこともない。  ただ、ただ、時間だけが過ぎていく。  時折、依頼人が店のドアをノックしたが、そのドアが開くことはなかった。  そんな、ある日。  ミシンの前に座っていた青年の耳に微かな声が届いた。 「……お兄さん、いますか?」  花屋の少女の声。青年は空耳かと思った。しかし、意識を向けると、それは確かに少女の声だった。 「すみません。お兄さん、いませんか?」  ノックとともに、しっかりと耳に届く。青年は反射的に立ち上がり、駆け出した。足元がふらつき、何度か転けそうになる。それでも壁に手を付き、どうにか店のドアを開けた。  青年が出てきたことに少女はホッとしたが、すぐに顔を青くした。 「ちょっ!? どうしたんですか!? すごくやつれていますよ!? ちゃんと食べて寝てます!?」 「は、あ、いや………」  あはは、と苦笑いする青年に少女は袋を押し付けた。 「これ、食べ物が入っているので食べてください」 「え? いや、でも……」 「余計なお節介かもしれませんが、ちゃんと食べないと駄目ですよ。体調が良くないと、良いものは作れませんから」 「あ……はい」  視線を逸らす青年を少女が覗き込む。 「なにかあったんですか?」 「い、いえ。なんでもありません……」 「本当ですか?」  疑う少女に青年が無理やり笑顔を作る。 「そうですか? あ、そうそう。お客さんからコレをもらったんですけど、私が持っていても勿体ないと思って」 「……コレは」  少女は持っていたカバンから大きな布を取り出した。真っ白で素朴な味わいがある麻の生地。絹のような光沢や派手さはないが、通気性が良く丈夫だ。 「お兄さんなら、良い服にしてくれると思って。あげますので、使ってください……って、お兄さん? 聞いてます?」  呆然と布を眺めていた青年の目が大きくなっていく。黒い瞳に光が戻る。  青年は少女の手ごと布を持った。少女の顔が一気に赤くなるが、青年は気づかない。 「あの、この布で服を作ってもいいですか!?」 「は、はい。そのために持ってきたので……」 「ありがとうございます!」  青年は布を貰って工房に飛び込んだ。  それから三日三晩。工房からミシンの音が止むことはなかった。  そして…… 「できた」  青年は完成した服を着せたマネキンを前に額の汗を拭った。初めて自分の手で満足した服が作れた。あとは、この服を花屋の少女に届けるだけ。  そこで青年は工房の窓に映った自分の姿に気が付いた。  ぼさぼさの黒髪に目の下の酷いクマ。痩せこけた頬に血色が悪い顔。  ここまで酷いとは思っていなかった青年は、急いで風呂に入った。しかし、それぐらいで容姿が変わることはない。 「こんな姿で会うのは……でも、早く届けたい」  葛藤する青年の脳裏に妙齢の女性の顔が浮かんだ。美容院を営み、頭から足の先まで全身をコーディネートさせたら街一番と噂の。 「あの人なら!」  青年はマネキンに着せていた服を丁寧に畳んで袋に入れ、目的地へと出かけた。 ※  無事、美容院で目的を達成した青年は市場へと歩いていた。  初夏の眩しい日差しが寝不足の目に刺さる。だが、負けている場合ではない。  颯爽と石畳を歩く青年の姿に若い女性たちから羨望の眼差しが集まる。  妙齢の女性はボロボロだって青年を見事に甦らせた。  傷んだ黒髪の毛先を切り揃え、長い前髪は整えて横に流す。現れた涼やかな黒い瞳の下にあるクマはファンデで誤魔化し、あとはチークで顔色を良くして完成。  流行りの服で全身をコーディネートすれば、モデルにも引けを取らない青年がそこにいた。 「最初はその鬱陶しい髪をバッサリ切ろうとしたんだけど、よく見れば綺麗だったから整えるだけにしたわ。今度から、ちゃんとお手入れしなさい」  妙齢の女性は満足そうに微笑んだ。  生まれ変わったに等しい青年は人々の視線から逃げるように市場に入った。一直線に少女がいる花屋へ。  少女を見つけた青年の足が止まる。全身が小刻みに震え、今にも逃げ出しそうになる。  青年は紙袋を持っている手に力を入れ、大きく深呼吸をした。これを渡すだけ、これを渡すだけ、と強く念じてから声をかける。 「あ、あの!」 「はい、どの花に……え、お兄さん?」  ポカンと口を開けている少女に固い表情の青年は紙袋を差し出した。 「こ、これ! あの布で作った服です!」 「え?」 「い、いらなければ捨ててください!」  少女は驚きながらも紙袋を受け取った。 「見ても、いいですか?」 「は、はい。どうぞ」  少女は紙袋から服を取り出した。白い布で作られた大小の様々な花々。その一つ一つが本物の花のように煌めいている。その花々が集まり広がった真っ白なドレス。 「すごい……」  見惚れている少女に近くで見ていた婦人が声をかける。 「まるでウエディングドレスみたいだね。従兄弟のお兄さんの次はお嬢ちゃんかな?」  思わぬ言葉に少女の顔が真っ赤になる。 「な、なにを言うんですか! けっ、結婚なんて、私はまだまだ先です! そもそも相手がいません!」 「え? 結婚するんじゃ……」  少女は盛大に否定した。 「しません! しません!」 「でも、毎日ブーケを……」 「従兄弟が結婚するのに自分でブーケを作りたいっていうから、教えていたんです! 不器用で毎日教えても、なかなか上達しなくて大変だったんです!」 「あ、そういう……」 「ちょっ!? お兄さん!? お兄さん!」  真実を知った青年は気が抜けたのか、その場に倒れ、そのまま眠りについた。 ※※※※  カタカタとミシンの音が響く工房。テーブルにはお菓子と紅茶と花。  棚には花のようなウエディングドレスを着て微笑む花嫁の写真。それから、子どもを挟んだ家族写真、年老いた花屋の少女の肖像画が並ぶ。 「おじいちゃん!」  ミシンの音が止まり、老人が振り返った。白髪混じりの黒髪が遅れて揺れる。黒い瞳の目元には優しいシワ。 「おや、また来たのかい?」 「別に見ててもいいでしょ?」 「いいけど、楽しいかい?」 「うん!」  元気に返事をした女の子が近くにあった椅子によじ登る。花屋の少女を幼くしたような姿。  女の子が不思議そうにテーブルの上を眺めた。 「どうして、いつもお菓子とお茶とお花があるの?おじいちゃんが食べるわけじゃないのに」 「それは、おまじないだよ。いい服が作れますように、ってな」 「おじいちゃんが作る服はいつも素敵じゃない」  女の子が振り返る。長い黒い髪が幼い動作に合わせて揺れた。 「いや、いや。この年になっても満足な服が作れたのは一回だけなんじゃよ」 「そうなの?」 「そうだよ。そう、そう。一つ、いいことを教えてあげよう。この工房で妖精を見たら、花をあげてごらん」  女の子が椅子から飛び降り、新緑の瞳で老人を覗き込む。 「お花をあげたら、どうなるの?」 「もし、妖精に気に入られたら……」  二人の様子を工房の天井から眺めているモノがいた。 『別に嫉妬してるわけじゃないのにねぇ〜』 『そうそう。人間が勝手に見えなくなってるだけなのに』 『私達はずっとここにいるのにね』 『みーんな服より大事なものができるだけ』 『そうそう』 『あの子はどうかな?』 『楽しみね』  くすくすと小さな笑い声が響く。その声に女の子は顔を上げて首を傾げた。
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