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番外編 恋の終わりとはじまり 1
「だから、月末は締めで忙しいってんだろ、祐介!前からじゃねえか!」
朝の忙しい時間に、ネクタイを締めながら隆司が怒鳴る。ここに引っ越しして何回めの喧嘩だろう。以前のコーポでも喧嘩はしてたけど、こんなにしょっちゅうじゃなかった。
「でも三日連続で九時過ぎに帰るなんて、遅すぎない?」
僕は負けじと隆司にくってかかる。そんなに残業して、隆司が倒れないか心配なのに。その言葉を遮るように隆司は言い返す。
「とにかく!忙しいの!お前も早く支度しろ」
彼氏である隆司が転勤になり、同棲していた僕も一緒に引っ越しして三か月。幸い職もすぐ見つかり、お互い仕事に精を出してるものの…
隆司の職場は好景気で、多忙だ。経理マンである隆司にも皺寄せが来ている。加えていま、月次決算で忙しいのだ。同じ経理マンの僕は月末決算の忙しさはよく分かっている。だけど、それにしても残業が多すぎる!締めではない日だってちょくちょく九時前になるのだ。僕の職場はそんなに残業ないから、七時には家に着いてしまう。引っ越しした先に、知り合いなんていないし隆司が帰るまでは一人だ。
この歳になって何言ってるんだと言われそうだけど、寂しいものは、寂しい。
なので、ついつい隆司を責めてしまう。隆司に言ったところでどうもならないのは分かってるのに。
「白木、顔色悪いけど大丈夫か?」
職場の自販機横のベンチで一息ついていると、カメラマンの河本さんが話しかけてきた。
「大丈夫です、ちょっと出勤前に彼氏と喧嘩して」
「あー、そうか」
河本は僕の隣に座り、手にしていた缶コーヒーを飲む。最近、たまに話をしてくれる河本さんは同僚の赤城さんが好きらしい。本人から聞いたことはないけど、僕はそういうの分かるんだよね。
ああ、隆司に片想いしてた高校生のころが懐かしいな。あのころの隆司はまだ髪が明るい茶色で先生によく怒られてたっけ。僕らは呼び出しくらった隆司を指差して笑ってたっけな…
あの頃は楽しかったなあ、片想いはつらかったけど今より楽しくてドキドキしてたなあ…
「お、おい、白木、どうした?」
河本さんの声で、我に帰る。懐かしんでる間に僕は泣いてしまっていたようだ。ほっぺたに涙がポロポロ流れてた。
「ごめん、ちょっと肩貸して」
「…仕方ないな」
迷惑だろうに。それでも河本さんは黙って肩を貸してくれた。
家に帰ったら素直に謝れますように。
明日はもう、喧嘩しませんように。
そう思っていたのに。
「…え?」
家に戻ると、何だか違和感があった。隆司の色んなものが、なくなっている。いつも着る家着。予備の革靴。ネクタイにおいては、一本もない。
初めは泥棒かと思ったけどものの見事に自分のものは、何一つなくなってない。
まさか、まさかと思ってると、テーブルに小さな紙が置いてあることに気づいた。
『少し離れたい』
殴り書きされたそのメモに、僕は頭を殴られた。
***
それから一週間しても、隆司は連絡すらなかった。元々連絡するのがマメではないし僕の方から連絡してばかりだった。
もう多分このまま別れてしまうのかなと思うと、枯れたはずの涙がまた出てきそうだった。
「よぉ、仲直りしたか?」
給湯室にいると河本さんが話しかけてきた。何で知ってるんだろうと一瞬思ったけど、自分から言ったんだった。僕は答えたくなくて、あえて話をすり替える。
「そう言えば、僕河本さんに聞きたかったんですけど、赤城さんと組んでどれくらいになるんですか?」
河本さんは不思議そうな顔をしつつ、答える。
「もう三年かな」
「…へえもうそんなにコンビ組んでるんですねえ」
「コンビって、お笑い芸人じゃないんだから」
笑う河本さんの顔を見て、以前から思っていたことを聞いてみる。
「河本さんの突っ込み、愛がありますもんねえ。僕見ててわかりますよ、河本さんが赤城さんのこと、好きなんだろうなって」
ギョッとした河本さんは僕を凝視する。
「テレビだけだとそこまで思わなかったけど、たまにここで見る二人の時とか、この前の飲み会で見て確信したんですよ。多分、あってると思うけど。…アプローチしないんですか?」
僕はもう恋の終わりに近づいてるのに、目の前の人は今から恋を始めるのか。
河本さんはその問いに答えず、時間が過ぎる。
ふと、僕は意地悪したくなった。
「もお、じれったいなあ。そんなんじゃ河本さん辛いでしょ。だったらさ、僕に乗り換えない?」
「…は?」
「実はさ、彼氏と別れちゃって。寂しいんですよね。きっと僕の顔、河本さん好きだと思うし。赤城さんにそっくりだから」
別れてはないけど。でもこのままじゃ、僕は寂しくてやりきれない。半分は冗談で、半分は本気…かもしれない。
「ばっかだなお前。俺は赤城の顔が好みだからって好きなわけじゃないよ。あいつじゃないと俺は嫌なんだ」
あ、そうか。そうだよね。僕は何言ってたんだろう。
「それに白木、彼氏と別れたからって投げやりになるなよ」
河本は僕の額にデコピンをする。パチン、といい音がして…むちゃくちゃ痛い!痛くて、涙が出そうだ。それはきっと河本さんの気持ちなんだろう。しっかりしろ、と。
「ちぇっ、つまんないの。じゃあ、赤城さんにアプローチしなよ」
「もう時間だ、行くぞ」
河本さんはそのまま給湯室を出てスタッフルームへと向かった。
何だよ、自分のことになると臆病なんだな。…さてと、向こうで聞いてる赤城さんに助言しに行こうかな。
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